156:「噂にこそ時として」

「辞めたい、ねぇ。この非常事態に何を言っているのかしら……公人として、一個人の望みよりも国の安定を重要視すべきだとは思わないの?」

 

 レイアは眼前の男──北部の重臣、迂堂廻途に問いかけた。

 迂堂はにこりと笑う。

 

「仰る通り、現在はとても平和な時代とは言えませんな。国王陛下の突然の崩御、東部動乱に見られる治安の悪化、『緋熊党』と称する輩の動き……まこと、予断を許さぬ緊迫的状況と申せましょう。ならば逆にお伺いしたい──そのような環境の中、北公様は日々何をなされておるのか?」

「…………」

 

 レイアはさりげなく体の位置を変え、机の上の実験器具を背中の後ろに隠す。迂堂はことさらに首を伸ばし、彼女の背後を覗き込むような仕草を見せた。

 痛いところを突かれた格好だった。大変な状況なら、北公がまず働けという迂堂の指摘は的を射ている。

 しかし、それはレイア個人の怠慢とばかりは言えないと彼女は内心で思っていた──彼女の父である先代北公も魔術的効能を持つ薬草の調合研究に一生を捧げたし、そのまた先代は蠱術と魔術の比較研究において第一人者として名を馳せている。実務を迂堂に任せきりにしてやりたい研究に没頭するのは歴代北公の伝統とすら言えた。急にそれが終わると言われても困る、というのが正直なところである。

 

「私に不満があるのなら、いっそあなたが北公をやってみる?」

 

 不貞腐れたようにレイアは言う。迂堂は満面に嫌そうな表情を浮かべた。

 

「嫌ですよ。余計に辞められなくなるだけでしょう」

「まあ、そうかもしれないけれど」レイアは呟く。「なんにせよ、辞めたいのならもっとふさわしい時期と言うものがあるでしょう? 今すべてを投げ出すのは無責任というものよ」

「無責任とは?」

「その……そりゃ、国全体の政情不安はともかくも、この北部で起きている問題だってあるじゃない。それは少なくとも施政実務を担うあなたがきれいさっぱり解決すべき責任を負っているものではないかしら? 麻薬業者の取り締まりもまだ不完全だし、それに……そう、なんとかの悪鬼っていうのもいるんでしょ?」

「『クロウリー街の悪鬼』ですか? 単なる噂ですよ」

「噂にこそ時として真実が宿るわ」

「では、それを解決すれば引退をお認め頂けると取ってよろしいですな?」

「その時に別の問題が起きていなければ、あるいはね」

 

 のらりくらりと言い訳を続けるレイアに根負けしたように、迂堂は肩を落とす。

 

「ひとまず退職に関する書類を各機関に回しておきます。今度こそ、必ずサインを頂きますからな」

 

 言い捨てて迂堂は部屋を去る。秒刻みのスケジュールの中で生きている彼には、押し問答に使える時間もごくわずかなのだ──それを活かし、毎日のこの問答をレイアはからくも躱し続けていた。

 レイアは小さく溜息をつく。

 彼の気持ちはわかるし、同情もする──しかじ実際問題として、迂堂を退職させるわけにはいかないのだった。

 彼の能力ゆえ、という側面もある──確かに他に比類なき経験と知恵の蓄積を持ち、それでいて秀でた思考力とセンスにも恵まれている彼は間違いなく北部随一の政治家であり、官僚であり、軍人であった。彼の引退は実務上多くの問題を生むだろう。しかし、そんなことはもう一つの問題の前では些細もいいところだった。

 彼を退職させる金が、北部にはないのだ。

 国法の不備──と言い切ってしまうにはいささか無理がある。永遠の命を持つ者の存在まで織り込んだ法など、期待するだけ無駄だろう。しかしながら、現行法が彼の存在にそぐわない事もまた事実ではあった。

 

 具体的な例を出すとするなら。

 国法の一つ、公人法における公共業務従事者への退職慰労金についての規定には、その金額を職能等級と勤続年数によって定めるとある。迂堂の務める役職は大臣級──ごく一般的に40年を勤め上げた大臣に支払われる退職金は、王都の一等地に豪邸を構えることができるほどの金額となる。しかしながら迂堂はその三倍近くの年数を務めている──支払われるべき金額も三倍と言いたいところだが、残念ながら実際の金額は八倍以上になる。勤続年数が増えるごとに指数に修正が加えられる仕組みなのだった。

 しかもそれは、政務官としてのみの話である。迂堂は軍人でもあり、軍人には退職金について別枠での規定が存在するのだ。軍人としても位人身を極める彼には相当額が計上され、しかも勲章の数が基礎額に加算されるせいで、軍人としての彼の退職金は政務官としてのそれの倍以上であった。

 さらに加えて、退職後の公人あるいは軍人には恩給が支払われる。これも位階と勲章の数により額が増える仕組みで、その期間は当人が没するか、あるいは退職から20年を経過するまで継続される。これも公人と軍人では立脚する規定が異なるため、二重取りである。

 そしてさらに、退職を償還期限と定める公人特別公債や各種の積立金──これらをすべて足すと、迂堂が退職することにより発生する債務金額は北部の拠出可能金額を遥かに超えていた。形の上ではあくまで中途退職であるためため規定により減額はされるものの、それでも到底払い切れない。仮に満了退職という扱いで計算してみると、北部が十回破産してもなお足りないことになる。聞くだけで卒倒しそうになる話だった。

 

 悪い冗談ね、とレイアは思う。金額をそのまま力と読み替えてしまうならば、彼は引退することによって北部のすべてを所有する支配者となり得るのだから。

 政治家としてはこれ以上なく有能で、将軍としても比類なき功績を持ち、幾度となく北部の危機を救い、今日の繁栄に最も貢献した男。周囲のすべてから敬われる『大いなる名臣』『生ける北部史』『大霊山最大の智将』──迂堂廻途は、少なくとも北公レイアにとってみれば致命的な不良債権でしかなかった。

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