155:「早くそうなりたいものですな」

 

「ふん、ふん、ふん……」

 

 レイア・リシャータは上機嫌で鼻歌を歌いながら、机の上のガラス瓶を見つめていた。

 密閉された空っぽのガラス瓶の中には、ただ向こう側の壁の模様がいくらか歪んで見えるだけであった──しかしレイアは、一心にその中を注視している。

 やがて、瓶の中にふわりと靄のようなものがかかる──狭い瓶の内側をゆらゆらと蠢きながら、靄は次第に定型を取り始める。ほどなくして、それは一本の羽根ペンの像を結んだ。輪郭にやや曖昧なものを残したままではあるが、映し出された絵などとは違って毛の一本一本にも実在感がある。

 レイアは視線を動かし、机の脇に置かれたもう一つのガラス瓶を見やる。そこには実際に羽根ペンが入っていた──空の瓶の中に現れた羽根ペンとそっくりそのまま同じ品である。

 

「ふうん──同調には成功。しかし、やっぱり見た目を遠隔再現するというのはそう簡単なものじゃないわね」

 

 レイアは冷静な口調で、目の前の結果を端的に表する。椅子に座ったまま、背を伸ばして実物の羽根ペンの入っているガラス瓶を手に取った。

 二つの瓶の距離が近くなると、靄が映し出す羽根ペンの輪郭はくっきりとする。目下のところ、これが一番の問題なのだった──レイアが魔術によって実験している、映像による遠隔通信は、距離的な面に未だ大きな制約を残している。わずか数歩の距離を隔てただけで詳細に曖昧な部分が出始める現状では、単純な図形のようなもの以外には情報伝達が叶わない。そしてそうであるならば、一般的な蠱術である『黄金鶴』のような音声通信の方がよほど多くの情報を伝えられるだろう。

 

「どのように構成を組み替えればもっと精度が増すかしら……まあ短絡的に言うならば『禁誓ギャサ』の強化だけれど、それでは汎用性を犠牲にすることになる。通信を主眼に置くならば、それは致命的よね……ううん、こういう時ばかりは蠱術のお手軽さが羨ましくなるわね」

 

 悩みながらも、レイアは楽しそうな口調で独語する。実際、楽しんではいた──果てしのない魔術の研究と研鑽。繰り返される課題の発見と解決。その快感に取りつかれ、研究に生涯を捧げる多くの者と同じように、レイアの周りには様々な資料や学術書が乱雑に積まれ、あるいは広げられたまま放置されている。本来の面積は相当の広さを持つはずのレイアの居室は、現状半分以上が書籍や魔術道具にうずもれていた。

 瓶をどけて机上に紙を広げ、いそいそと実験結果を記録しにかかるレイアの耳朶を無遠慮なノックの音が打った。

 

「……入りなさい」

 

 できるだけうんざりした様子を声に滲ませないよう努力しながら、レイアは答える。

 ノックと同じように、まったく無造作に扉が開かれる──この二つの動作だけで、入室者が誰なのかレイアには判断できた。

 

「おはようございます」落ち着いた声は、すぐに呆れの色に染まる。「……その分では、今日も徹夜をされましたな? 魔術学の功績は永遠に記録され未来の礎となってゆくものではありましょうが、その一方で睡眠時間の低減はご自身の寿命という時間を削る行為だとご存知か?」

「朝一番からお説教とは随分ね」

「なーに、お説教などではありませんよ。そのような大層な身分になった覚えもありませんしね……むしろ、羨望から出る一言とご解釈頂きたい。時間を忘れるほど打ち込めるものがあること──そして好きなことに心行くまで打ち込める時間があること、激務に身の細るばかりの私には羨ましくて仕方がありませんよ。願わくば、私も早くそうなりたいものですな」

 

 ふう、とレイアは溜息をつく。観念して振り返る──見知った、というか見飽きた顔がそこにあった。

 艶やかな黒髪、きめの細かい肌。若さに溢れた容姿にまるで似合わない、すべてを達観したような老成した表情。

 

「言葉の割に、実にご健康そうな見た目ね。私こそ羨ましいわよ──迂堂」

 

 嫌味に対して、遠慮なく嫌味で返す。それを受けて、迂堂廻途は首を傾げて自嘲的に笑った。

 

「見た目だけですよ。先刻ご承知のはずでしょうに──それはそれとして、本日もお願いに参りました」

 

 小馬鹿にしたような態度とは裏腹に、あくまでも丁寧な言葉遣いで迂堂は言う。彼が敬語で接する人間はこの大霊山の中でもごく一握りなのだが、だからといってレイア自身は嬉しくも何ともなかった。

 

「そう。まあ、挨拶代わりに聞くとするわ」

「では、こちらも挨拶代わりに申し上げます──そろそろ私の退職願を受け入れていただく気になりましたかな? 北公様」

 

 飽きるほど繰り返した問答の返事に、大霊山北公レイア・リシャータはもう一度大きく溜息をついて見せた。

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