154:「危険の中を這い回る」

 

 なんだ……これは。

 歌耶の耳から這い出てきたこれは──見間違えようもない。

 ぷにちゃん、だ。山辺ゼミ研究塔、通称『花園』の環境管理をつかさどるとかいう噂の──魔術生物。

 それが、どうしてここに。

 歌耶の中に。

 状況がつかめず、ミズハは混乱していた。状況の急変によって思考は自らの内へ容易には定まらず、むしろ意識は外側に向く。だからこそなのか、背中でもぞりと動く感触にミズハはびくりと反応した。

 贄蜥蜴が──動いている。

 ミズハの背中にしがみついたまま、のそのそと体の向きを変えているような──そんな感触の後、視界に細いものが動くのが見えた。

 半透明の影のようなそれは、しかし瞬間的にきらりと金色の光を発して伸びる。贄蜥蜴の尻尾だった。

 

「ぽわっ」

 

 尻尾は鞭のようにしなり、歌耶の骸の上でのたくっていたぷにちゃんを弾き飛ばす。間の抜けた鳴き声を発して、ぷにちゃんは空中に舞い上がり──そのまま、霧消するように消えた。

 

「え……?」

 

 ミズハはただ唖然としたまま、大通りへ続く裏道の途中にへたり込んでいる。再び背中をもそもそと伝う感触がして、唐突に贄蜥蜴の大きな顔がミズハの正面に現れた。

 影を纏ったような不明瞭な輪郭──その中心に無機質な光をともす、二つの眼孔。

 その虚無的な視線が、しかし明確に一つの意図をミズハに伝えていた。

 

 いつまで──腑抜けておるのか。

 電波は失せた、目を覚ませ。

 

「…………!!」

 

 苦り切ったその声を脳裏に刻み込まれるようにして聴いた瞬間、ミズハは全身で冷水に飛び込んだような感覚を覚えた。

 

 私は──私は今まで、何をしていた?

 

 可愛らしい少女と睦み合い。

 花の咲き乱れる園に通い。

 上品で優雅な先輩と肩を並べ。

 品良く勉強を嗜み。

 柔らかで暖かな時を過ごし。

 それを幸せだと──感じていた。

 おいおい、冗談じゃない。

 冗談じゃあないよ。

 まるっきり、柄じゃないじゃないか。

 私は誰だ? ミズハだ。

 夢見る少女じゃない。恋する乙女でもない。

 策謀を玩び、危険の中を這い回る──人命を軽視し、既成の構造を嘲弄する──嫌われようが憎まれようがお構いなしで、自らの願いにしか目が向かない反逆者。

 それがこの私じゃないか。

 

 冷たくなりかけた死体を抱え、今にも声を上げて泣きだしそうだった自分のことが急におかしくなり、ミズハは思わず噴き出した。

 

「ふふ……ふふふ、はははは……! 歌耶、君にはすっかり絡め取られたよ。いや、脱帽だ。君が今ここで死にさえしなければ、おそらく私の願いは北部の巷間にうずもれて二度と日の目を見ることはなかったのだろうね。まあ、それを狙ったというよりは結果的にそうなったという話なんだろうが──それにしても恐るべきは山辺教授だ。よくもまあ、こんな仕組みを作り出したものだね」

 

 死体は何も答えはしない。しかし、確認するまでもないという確信があった。

 山辺ゼミ、『花園』の環境維持──なるほど、言いえて妙だ。確かに環境維持には違いないだろう──ただし花にとって必要な栄養や空気、日光の環境を整備するというような意味合いではなく、あの夢の中の楽園のようなゼミそのものの環境を維持する。それがぷにちゃんの仕事だった。

 すなわちそれは、『洗脳』──贄蜥蜴は電波と称したが、おそらく山辺研究塔に鎮座するぷにちゃんからは人の意識に働きかけるエネルギーが常に放射されていたのだろう。その影響を受け、ミズハは自分でも気づかないままに自分ではない自分へと変わっていたのだ。

 しかし、その洗脳能力にも限度がある。おそらく、そういうことなのだろう。射程範囲か、持続時間か──あるいはその両方か、ぷにちゃんの能力には何らかの限界がある。それを補強するのが、たった今歌耶の中から出てきたミニサイズのぷにちゃんというわけだ。分裂し寄生したぷにちゃんはまるで中継地点のように働いて、洗脳能力の限界を引き延ばす。歌耶の中にはすでにそれが構築されていた──ミズハはまだだったが、歌耶の傍にいることで学外でも影響を受け続けていたのだ。今、宿主が死亡したことでぷにちゃんの分裂体は自分自身を維持できなくなり、結果としてミズハの洗脳が解けた。

 タガが外れたように冴えてゆく頭でそこまでを一気に考え、ミズハは背後の贄蜥蜴に笑いかけた。

 

「危険を承知であえてクロウリー街まで足を向けたのは、私の無意識ゆえか──それとも君の思いが作用したのだろうか? どちらにせよ、目を覚まさせてくれて有難い。お礼を言わせてもらうよ」

 

 贄蜥蜴はすでに口を閉ざし、元のようにミズハの内に収まっていた。

 いつも通り無駄なおしゃべりは無しか、と苦笑してミズハは立ち上がる。

 

「さて、これからどうすべきか。大きな荷物ができてしまったものだな──いや、考えようによっては」

 

 しばらく考えていたミズハは、にこりと微笑む。

 

「うん、物は試しだ。ひとつ、やってみるとしようか」

 

 さっと踵を返し、ミズハは目指していた表通りとは違う方角へ足を向ける。

 ついさっきまで全霊の愛を捧げていた相手──三暦歌耶の死体を無造作に引きずりながら、建物の影の暗がりへその身を滑り込ませていった。

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