153:「その刃の閃く先には」
ドブの悪臭が鼻につき、並び建つ木造のあばら家はそよ風にさえ不気味な軋みを鳴らす。まだ宵の口にもかかわらず、クロウリー街は悍ましさすら感じさせる暗黒に包まれていた。
それは表通りの高い建物の陰に隠れるようにして存在しているせいでもあり、また半ば見捨てられたような貧民街にはろくな街灯設備がないという理由もあるだろう。しかし何よりも、巷を騒がす都市伝説がこの地を支配する闇をより深く不気味なものに変えているような気がして──ミズハは思わず身震いした。
現在、歌耶は自分の部屋で荷造りをしている。彼女を待って一人で闇の中にたたずむミズハは静かに焦れていた。
歌耶を連れて、早くここを離れよう。そう決意する一方で、なぜわざわざ今ここにやって来たのかと後悔し始めている。歌耶の生活の不便を慮り、必要なものを一旦取りに来させる必要がある──確かに理屈だが、それは明朝でも構わなかったはずだ。ただでさえ治安の悪い貧民街、いたずらに危険度を増す行為をする必要などなかったのではないのか。
頭ではわかっていたはずだった──しかし自分でも意図せずに、ここへ向かってしまった。奇妙だが、それが率直な感想だった。考える前にするりと口から言葉が出たのだ。歌耶自身も怖がっていたようだったが、それ以上にミズハの果断さに信頼を置いてくれていたせいか素直に従ってここへやって来ていた。
ミズハは頭を捻る。どうして今日、ここへ来ることを決断したのか。いや、「決断」という言葉も違う。考えた末の結論ではなく、もっと奥深い何かによってこの場所へ引っ張られたような……
そこまで考えた時、少し先から戸の閉まる音がする。少しの間を挟んで、荷物を背負った歌耶の姿が見えた。
少しだけ安心したミズハは、次の瞬間全身を凝固させた。
夜の貧民街のそこここに蟠り、とぐろを巻く闇。
その中で、何かが動く気配を感じた。
歌耶の後ろに──何かがいる。
「…………!」
ミズハは素早く左に跳びのく。
体の位置をずらし──射線上に歌耶が入らないようにして、即座に右人差し指を闇の中へ向ける。
「『穿咬』──!」
ばきばきと音を立てて闇の中を土埃が舞う。路上に置かれた木箱か何かを破壊したようだった──するとさっきの気配は野良猫あたりか。
驚いたように、歌耶が後ろを振り返る。
その時。
撃ち抜かれたはずの位置から、まっすぐに黒い人影が飛び出してきた。
大柄なその人影は、前傾姿勢で走りながら両腕を大きく広げる。雲間から月が僅かに顔を出し、人影の両手から延びる鋭利なシルエットをきらりと光らせた。
刃を持っている。
なぜ。問うまでもない。切り裂くため。
ゾッグの言葉──レンは全身を寸断された死体で発見された。
こいつが。
目の前のこいつが、『クロウリー街の悪鬼』。
「あああああああああっ!」
焦燥感に叫び声を上げながら、ミズハは『穿咬』を続けざまに放つ。
ミズハの攻撃は人影に次々と命中したが、それ以上の効果は生まない。まるで人形相手に射撃をしているかのように、穿ったはずのその肉体からは一滴の血も流れなかった。
人影の勢いは止まらない。
振り下ろされた右腕、その刃の閃く先には歌耶が──
「くっ…………!」
ミズハは素早く狙いを変え、人影のやや右下方に向かって『穿咬』を放った。
そこにあったもの──傾いだ木造の民家から張り出した屋根を支える柱を、『贄蜥蜴』の力が穿ち折った。
太い木材が人影に向かって落下する──防御の構えも取らず背中で木材の落下を受け止め、人影は重みにつんのめった。
機を逃さず、ミズハはさらに攻撃を続ける。不安定になった民家に更なる穴を穿ち、崩れ落ちる建材で人影を足止めした。
「歌耶……!」
呼び声と共に、ミズハはふらふらとこっちに向かってくる歌耶に飛びつき、抱き留めた。
小柄な体を抱え上げ、一目散に走り出す。
貧民街を覆う不潔な闇そのものから逃げ出すように、表通りへ向けて疾走した。
街灯の光も人通りもある表通りのすぐそばまで近づいて、ミズハはようやく安堵の溜息を漏らした。
「ここまでくれば大丈夫だ」
「お……お姉様……」
「すまない歌耶、私の判断ミスだ。怖い思いをさせてしまったね──でも、言っただろう? 君は必ず私が守ると」ミズハは努めて明るく言いながら、抱えた歌耶を地面に下ろす。「ああ、苦しかったかい? 何しろ急いでいたからね、抱えられる方の快適さまで気を回す余裕が」
そこで言葉が止まった。
地面に膝を突いた歌耶──その顔は冷や汗に濡れ、苦痛に歪んでいた。
「え……ま、まさか」
戦慄を覚え、ミズハは歌耶を助け起こす。
暗い中では全く見えなかった──上半身前面に、斜め一直線に太く赤い線が走っている。服の内側から滲み出した血だった。
ミズハは愕然とした。すんでのところで助け出したと思っていた歌耶は──すでに悪鬼に斬られていた。ミズハの対抗によって十分に踏み込めなかったせいか、レンのように体を切断されるまでには至っていなくとも──夥しい出血が傷の深さを物語っている。
「か……歌耶!」
ミズハは歌耶を抱き締め、傷口を強く押さえた。
どくどくと湧き出す鮮血がミズハの全身を濡らす──その熱さが、歌耶の生命それ自体のように思えた。存在そのものの持つ温もりのような熱い血が、次々と歌耶から失われていく。
歌耶はゆっくりと首を巡らし、こちらを見る──突然のことに混乱し呆然としていた表情が、ゆっくりと変わるのが見えた。
「お、ねえ、さ……」
歌耶は自分を覗き込むミズハの顔を見上げて、口の端を痙攣のように小さく歪ませた。
限りなく弱々しくなってはいたが──それは、いつも彼女がミズハに向けていた笑みだった。この極限状況において、歌耶はミズハを見て『会えて嬉しい』とでも言いたげな人懐っこい微笑を浮かべていた。
美しい瞳から一筋の涙が零れ──それが顎まで伝う前に、歌耶はがくりと脱力した。
抱き締めるミズハには、歌耶の全身が弛緩するのが分かった。
張り詰めた緊張の糸が切れるように。
命を命たらしめていた力が消えるように。
三暦歌耶はミズハの腕の中で、命を落とした。
「か……」
心を通わせた少女の死に動揺し、その名を叫ぼうとして──不意にミズハは口をつぐんだ。
ミズハから顔を背けるように横を向いて事切れている歌耶の耳。
他の顔の造作と同じように、小さく繊細なその耳の中から、小さな虫のようなものが這い出して来るのが目に入ったのだった。
軟体動物のように体を波打たせながら、小指の先ほどの大きさの白く丸い何かがいる。死んだ歌耶の体内から逃げ出そうとしているかのように。
「…………」
ミズハは息を呑んだ。
歌耶から出てきた白いものはぶるりと体を震わせると、ミズハを見上げてか細い声で一声啼いた。
「ぽわ……ぽわぽわ、ぽわわーん」
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