(004):「断章4 あなたの名前は」

 

「お嬢様、お迎えに上がりました」

 

 放課後──教科書を鞄に仕舞う私に、廊下から顔を出したバティストが優しい声をかけた。

 

「ありがとう、今行くわ」

 

 小さく手を振り、私は鞄を背負う。

 今まで話していた隣の席のマリーちゃんが、羨ましげな視線を私に向けた。

 

「いいな、キーラちゃんは──あんなに格好いい使用人さんにお世話してもらえるなんて」

「えー? そこまでかな?」

「そこまでだよ!」

 

 やけにむきになるマリーちゃんがなんだかおかしくて、私は笑う。

 バティストは私が物心ついた時から家で働いていて、私にとってはほとんど家族のようなものだから──そういう見方をしたことが無くて、よくわからない。しかし、彼が毎日迎えに来るたびに、クラスメイトが黄色い声を上げるのはいつものことだった。

 

「あれで結構口うるさいし、そんなに楽しくないけどなあ」

「いいじゃない、愛があって。私もあんな人に心配されてみたいなあ」

「ふうん──ま、いっか。それじゃ、また明日ね」

「あ、キーラちゃん──今日借りてたペン、返さなきゃ」

「いいよ、あげる! それ、私あんまり使わないし」

 

 マリーちゃんが何か答える前に、私はにっこりと笑って廊下へ走り出る。

 校舎の出口へ向かう私に、横からバティストが控えめな口調で話しかけてきた。

 

「お嬢様、お節介かもしれませんが──お付き合いするお友達は、選ばれた方がよろしいでしょう」

「何それ? マリーちゃんのこと?」

「みすぼらしい身なりの娘と仲良くされるのは、お嬢様のためになりません」

「ひどいこと言わないでよ。マリーちゃんは親友なんだから」

 

 私はふくれっ面でバティストを見上げる。

 いつもはきりりと引き締められている太い眉が、困ったように歪む。その下の緑色の大きな瞳は、私を気づかわしげに見つめていた。

 

「あの子のお家が貧しいのは、あの子のせいじゃない。違う?」

「ええ、それは勿論──しかし」

「でもあの子は弱音や妬みなんかおくびにも出さず、いつも明るく笑ってるのよ。それってとっても立派だと思うわ──実際、勉強の道具にも事欠いてるのに。そういうところが好きだから、私は仲良くしてるの」

「今はそうかもしれませんが」

「いつか私を利用する、って言いたいの? マリーちゃんが本当に必要に駆られてそうするなら、私は別に構わないわ。誰だっていろんな方法でお金を稼いで暮らしてる──バティスト、あなただってお父様からお給金をもらっているから私のそばにいるわけじゃない」

「お嬢様は大変──賢くおなりで」

 

 バティストはそう呟くと、私へのお説教を諦めた。

 なんでも完璧に手配できるくせに、口喧嘩はからきし。バティストはそういう人だった。

 

 

 

 それから何日か後。

 マリーちゃんは、学校に来なくなった。

 欠席が二日、三日と続くにつれて心配になった私は、先生に住所を聞いてマリーちゃんに会いに行くことにした。

 私が通りがかったこともない、町のはずれのはずれ──古くて変なにおいのする木造住宅が互いに寄りかかり合うようにして立ち並ぶ一画に、彼女の家はあるらしかった。

 通り過ぎる私を、色あせた古い衣服を身に纏った多くの人が好奇の視線で見つめた。

 自分で書いた簡単な地図を見ながら、角を曲がる──

 

「…………え?」

 

 私はそこで、気の抜けた声を出して立ち尽くした。

 路上で泣き崩れる、痩せた夫婦。その脇に、マリーちゃんが立っていた。

 哀願し、縋り付く──そんな三人のことをまるで見えていないかのように無視して、十人以上の作業員風の人たちが、彼女の家を解体していた。

 戸を外し。

 壁を剝がし。

 瓦礫を運び出し。

 マリーちゃんの暮らす場所を、壊していた。

 その中心で、指示を出しているのは──

 

「バティスト……何をしているの!?」

「おや」

 

 バティストは図面から顔を上げ、いつも通りの整った顔を私に向けた。

 印象的な黒々とした眉が歪む──面倒なことになった、と言いたげだった。

 

「お嬢様……どうしてこちらに」

「こっちが訊いてるの! なんであなたがこんなところで……」

「お嬢様へのお迎えには、まだ間がありますので」バティストは開き直ったように平板な声で私に告げる。「お嬢様がご学業に励んでいらっしゃる間、私はいつもこのように別業務をこなしているのです」

「そんなことを聞きたいんじゃないわ! どうして──どうしてマリーちゃんのお家を壊してるの!?」

「この家、というか──ここ一帯を更地にする予定ですので。ここらはすべて借地なのですよ──昨今の不景気で賃料の支払いが滞る世帯が続出したため、土地の権利者はいっそすべて取り壊して事業用の施設を建造することを望まれたのです。どのような施設かは──まあ、お嬢様にご説明するにはまだ早いですね」バティストは思い出したように付け加えた。「権利者とは、旦那様のことですが」

「お父様……が……」

 

 絶句した私は、マリーちゃんに視線を移した。

 なんと声をかければ良いかわからなかった──しかし、私からの言葉、それ自体を拒絶するように。

 彼女は、涙を流しながら──私を睨んでいた。

 

 そんな目で──見ないで。

 私は──私が望んだんじゃないのに。

 

 いたたまれなくなって、私は駆けだした。

 

 

 

 走って、走って、走って。

 呼び止めるバティストの声も聞こえなくなるほど、走って。

 走り疲れて、私は道の脇にへたり込んだ。

 薄汚れた道路を見つめる──脳裏にマリーちゃんの顔が浮かんで、目に涙が溢れた。

 お父様は──なんてことを。

 

「おい、お前」

 

 私の視界に、汚い靴と不健康な色の足首があった。

 見上げると、数人が私を取り囲んでいる。皆一様に、さっきとは違う顔色をしていた。

 

「聞いたぞ──お前の家が、俺達の住む場所を奪ったんだってな」

 

 その顔に浮かんでいるのは──紛れもない、憎しみだった。

 

「ち……違う……」

「何が違うんだ!」私を見下ろす無精髭の男性が大声を出した。「お前、何様のつもりか知らねえが……こんな事をしておいて、平気でいられるのか!? 毎日の食事すら満足にとれない俺達から、家まで奪って──そうやって稼いだ金で美味いもん食って、楽しく暮らして、それで幸せなのかよ!?」

「違う、違う違う!」

 

 必死で首を振る私に構わず、四方八方から悪意に満ちた手が伸びる。

 恐怖に竦んだ私の足元──排水溝の水たまりに、小さな波紋が生まれた。

 

「こっち」

 

 幼い声と共に。

 小さな水たまりから、一人の少女が浮かび上がる。

 どう見ても水深1、2センチの、人ひとりが潜れるはずもない場所から。

少女は、素早い動きで迷いなく私を抱きかかえた。

 

「え……!?」

 

 唖然とする貧民街の人たちと、それ以上に驚いている私。

 そのすべてに頓着することなく、少女は再び──水たまりに向かって、身を躍らせた。

 

 

 

 暗い水の底を通ったのは、数秒。

 ぐんぐんと近づく光──水面に顔を出すと、見慣れた我が家がそこにあった。

 私と少女は、自宅の庭にある小さな池にいた。

 

「危なかったね、お姉ちゃん」

 

 少女は、そう言って笑顔を見せた。

 

「あ……あなた、何者なの? どうして私、家に……」

「私の蠱術。水から水へ移れるの」

「蠱術……呪術使いなの?」

「ん、まあね」

 

 言いながら、少女はざばりと岸に上がる。

 私もそれに続きながら、硬い声で問いかけた。

 

「あなたも……お父様に言われて、私を守ったのね」

「ん……まあ、ちょっと違うけど、大体そんな感じかな?」

「帰って」

「え?」

「帰って。助けてくれてありがとう……でも、顔も見たくないわ。私の友達にひどいことをした、あのバティストの仲間なんか」

「…………うん」

 

 少女は寂しそうに頷いた。

 ずぶ濡れの彼女は、門に向かって歩き出す──数歩行ったところで、くるりと振り向いた。

 

「あの子……幸せになれるといいね」

「な……」

 

 何を無神経な、と言おうとして、私は止まった。

 少女の目には悪意も何もなく。

 ただ、羨むような色だけがあった。

 

「パパとママが一緒なら──私なら、それだけで幸せだよ」

「…………あなた」

 

 私ははっとした。

 こんな小さい女の子が働いているということの異常さに、今ようやく気付いた。

 普通なら、両親が許さないだろう。

 両親が──いたのなら。

 

 ──誰だっていろんな方法でお金を稼いで暮らしてる。

 

 以前にバティストに言った言葉が、不意に蘇った。

 この子は──頼る何者もなく、ただ自分の力で暮らすしかないのだ。

 そんな少女に、生きるために必死に働くこの少女に、私は何と言った。

 

「ごめんなさい」

「え?」

「あなた……そのままだと風邪をひくわ。拭くものと着替えを用意するから、上がってちょうだい」

「いいの? 私なんかが」

「お礼をさせて」私は小さく、少女に微笑みかけた。「私はキーラ。キーラ・アレクセエヴナ・ベルミノヴァ──あなたの名前は?」

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