059:「我は貴様だ」

 

「消えた……これも蠱術なのだろうね、おそらく」

 

 少しずつ昇りゆく朝日に照らされながら、ミズハは独語した。

 二人の少女が飛び込んだ水面には、未だ小さな波紋が残っていたが──二人の姿は影も形もない。底が見通せるほど浅く、面積もそれほどのものではないこの泉で身を隠すことが不可能である以上、能力によって別の場所に移動したと考える他なかった。

 

「今更ながら……蠱術とは便利なものだね。使い方によって、いくらでも便利に生活を送れる──翻って、君の体たらくは何なんだい。まったく」

 

 再び自らの背後に収まった贄蜥蜴に、半ば冗談、半ば本気の叱責を投げかける。

 この蠱妖はミズハの命令に従って動くどころか、何もしない。かと思えば勝手に動き出し、瀕死の老人を食べてしまった。

 

「まあ、あのの表情からして──彼が梟公だったというのは当たりのようだ。つまり何かい? 君は歴史に残るような強い者の命だけを選りすぐって食べる美食家グルメというわけかな?」

 

 ──しや……

 

「ん?」

 

 体の中に微かな声が響いたような気がして、ミズハは意識を集中した。

 しわがれて軋む──雑音のように不快な、しかし楽しげに歌うような小さな声。

 

 ──嬉しや、嬉しや。

 ──取り戻したる我が命。

 ──我が身の内に収まりぬ。

 ──この地に散ったる我が命。

 ──再び戻りて収まりぬ。

 

「我が命? あのお爺さんの命が?」

 

 問い返して、ふとミズハは思い出した。

 遠近に聞いた、歴史書の記述。

 

 初代王の御世、金色の蜥蜴を帯びた逆賊起つ。

 叛乱軍を率い王都に攻め入るも、国軍これを鎮圧す。

 暴走せし蠱妖も十人の英雄にその命を削られ、深き山に封ぜらる。

 

「十人の英雄に、命を削られ……ふむ、その削り取られた命が今、戻ったということなのかな?」

 

 贄蜥蜴は、何も答えない。

 あの時もっと突っ込んで聞くか、少なくとも出典くらいは尋ねておくべきだったかな──と後悔しながら、ミズハは傍の石に腰掛けて考えを巡らせる。

 わからないことだらけではあるが──『散った命が戻った』という贄蜥蜴の言葉と、歴史書の記述は符合する。贄蜥蜴とはその名の通り、自らの命を分割し、それを『贄』として差し出すことで当座の危険を逃れる性質を持った蟲妖なのだろうか。

 いや。

 仮にそうだとしても、計算が合わないだろう。

 記述には『初代王の御代』とある──厳密に何年から何年までが初代王の在世期間だったのかは覚えていないが、すくなくともざっくり100年以上は前の話だ。いくら老人とはいえ、梟公本人がその時代に贄蜥蜴と戦っていたわけはない。

 ならば──あり得そうなのは、その英雄の子孫に贄蜥蜴の命が伝えられている、とか?

 

「まあ、長寿をもたらす蠱術くらいあってもおかしくはないけれど──重要なのは、その散った命をこうして回収していけば、贄蜥蜴の力は強まる。そういうことなのかな」

 

 ミズハは一人で頷いた。

 実際、今まで贄蜥蜴が口をきいたことなどなかった──これは力を取り戻している証と考えて良いかもしれない。

 十人の英雄、あるいはその子孫──その命を探し、喰う。それは容易ならざる道であることは確かだったし、完全体となった贄蜥蜴が何をしでかすかわからないという危険もあった。

 しかし。

 

「それでも──世界に届くかもしれない話だね、それは」

 

「……何を夢見がちなことを言ってる」

 

 憎々しげな声に、振り返る。

 懐かしい髭面が、ミズハを見据えていた。

 

「おお──黒沢じゃないか! 久しぶりだね、元気にしていたかい?」

 

 にこりと微笑んで、ミズハは両手を広げる。

 対照的に、久闊を叙すという雰囲気には程遠い黒沢はこちらに鋭い視線を寄越した。

 

「探したぞ、ミズハ……俺から逃げてこんな東部の山奥まで来やがって。追う身にもなれ」

「逃げたとは心外だな。私が君のことをそんな他人行儀に思っていると誤解されたくないからこそ、手紙を残しておいたのに」

「手紙……あのふざけた手紙か!」黒沢は激高し、手近な木に拳を打ち付けて吼えた。「殺し屋稼業を始めて長いが、あれだけ屈辱を受けたのは初めてだぞ!」

「寂しさをひた隠そうとして出した茶目っ気が、かえって君の癇に障ってしまうとはね」

 

 けろりとした顔で返すミズハに、黒沢はかぶりを振る。

 

「もういい──お前の戯言は聞き飽きた。いい加減、俺を次の仕事に進ませてくれ」

 

 さらに言葉を返そうとしたミズハに、ひと呼吸の間も与えず。

 黒沢は流れるような手つきで素早く拳銃を取り出し、ミズハに向かって連射した。

 いつも通り、銃弾は空中で消滅する。身を乗り出した贄蜥蜴が、虫を捕食するかのごとく銃弾を食べたのをミズハは見た。

 

「…………!」

 

 その捕食の隙を盗むように。

 贄蜥蜴の死角を通って、大振りのナイフが空中を飛来した。

 ミズハは思わず凝固する──右耳の数センチ横を、鋭い刃が通過した。

 

「照準が甘かったか。しかし、消えなかった──次で仕留められるな」

 

 黒沢は小さく呟く。『静寂サイレンス』の通り名に違わぬ、静かに落ち着いた声音だった。

 さすがは凄腕の殺し屋だ、とミズハは心中で称賛する。

 それなりには長い付き合いをものともせず、ごく事務的に黒沢は弾を込め直し──再び、全弾をミズハに向けて撃ち出す。

 さっきと同じように、銃弾に食いつく贄蜥蜴。

 

「──終わりだ」

 

 薄い笑みを浮かべて、黒沢は左手でナイフを投げた。

 

「…………」

 

 空中を滑るように飛ぶ刃。

 何故だか自分でもわからないまま──ただなんとなく、ミズハは迫りくるそれに向かって、人差し指を指し示した。

 贄蜥蜴の姿が、消える──

 

「…………な、に……?」

 

 黒沢の、呆気にとられたような声が聞こえた。

 ナイフは──黒沢とミズハの中間地点に落ちていた。

 その刃の上半分が、消滅した状態で。

 

 黒沢は呆けたようにそれを見つめ──半秒ほどで我に返り、再び拳銃に手をやる。

 しかし。

 

「っ……!?」

 

 黒沢の持つ拳銃もまた、銃身の半分以上が抉り取られたように消滅していた。

 役立たずの金属塊と化したそれを、目を丸くして見つめる黒沢──ミズハも驚いてはいたが、それでも何とか現状を分析しようとしていた。

 空中で何かの力に削り取られ、推進力を失って落ちたナイフ。

 同じように、一部が消滅した拳銃。

 それらが同時に生まれたのは──そう、ミズハの指から伸びる直線上にその二つが位置していたから、だろう。

 ならば今の力は──ミズハから発されたもの、ということになる。

 

「これも、君の力か」

 

 肩越しに振り仰いで、ミズハは問う。

 答えを期待せず、すぐに顔を戻し──未だ混乱冷めやらぬ様子の黒沢の、足元を指し示してみた。

 ごぞり、と重い音を立て、地面の土が抉れる。すぐ傍に埋まっていた石が転がり、その上に足を乗せていた黒沢の体勢が崩れた。

 

「な、ん──」

 

 だ、と言い切る前に。

 不意の一事に対応できないまま、黒沢は横向きに倒れ──その勢いのまま急勾配を転げ落ちていった。

 

「なるほど──まあ、今はまず逃げようか」

 

 疑問を一旦しまい込んで、ミズハは駆けだす。

 背中の贄蜥蜴が、もぞもぞと動いた。

 

「あいつも喰いたかった、なんて言わないでくれよ? 彼は腕利きだが君を封じた『十人の英雄』とはまるで無関係だし──何より、彼と私は一緒に朝食を食べる仲なんだ」冗談交じりにミズハは言う。「しかし、予想以上に君の本来の力は強いようだね。元気を取り戻せば、ああいう力も解放されてゆくわけか」

 

 贄蜥蜴は、何も答えない。

 

「君の能力をせいぜい防弾チョッキ程度のものと侮っていて悪かったね。わずかな命しか持たない君は、せいぜい銃弾を食べて宿主を守る程度のことしかできなかったという訳だ──今後は鉛玉以外の物も食べられるよう、善処するよ。まあ、君が食べたいものと言えば──遥か昔に各地に散った、君自身の命なのだろうけれど」

 

 贄蜥蜴は、何も答えない。

 

「しかし何だね──命というのは、一体どんな味がするものなのかな? 私は未だそれを知らない──知る術もないしね。君はそれを知っている、その点については羨ましく思うよ」

 

 ──羨ましがることは無い。

 

 贄蜥蜴は──答えた。

 毎夜見る夢、その終焉と同じように口を開いた。

 

 ──我は貴様だ、レイゼイの王。

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