058:「唯一誇れることだった」
「っはあっ──」
水面から顔を出し、キーラは大きく息を吸った。
ウトラが、力を込めて彼女と祖父を岸に押し上げる。草の上に上がって、ようやくキーラは現在位置を理解した。
梟公の隠れ屋敷──その裏手にある泉。ウトラは『濁鱶』でこの場まで転移したようだ。このあたりの地形は緩い勾配が連続している──屋敷側からここを視認することはできない。カガリが仮にウトラの能力を知っているとしても、ここを発見するまでには猶予があるはずだった。
今のうちに逃げなければ──キーラがそう考えた時、傍らに転がる祖父が苦しげな呻き声を上げた。
「お祖父様……」
キーラは絶句する。
カガリに抉られた肩の傷から、どくどくと血が流れ出ていた。下生えを黒々と染める血の色とは裏腹に、祖父の顔色は紙のように白い。
危険な兆候だった。
「キーラ……私はもう長くない。お前だけでも、身を隠しなさい」
「お祖父様……ごめんなさい、私がもっと上手くお助けできれば……」
「自らを責めなくていい……お前はよくやってくれた。お前の助けがなければ……こうして別れを言うことすら、できなかったのだ」
祖父の顔は、再び優しい老人のそれに戻っていた。
節くれだった手が、キーラの濡れた金髪をそっと撫でる。
「梟公を、お前に継ぐ……町に降り、部下に協力を求めなさい。私が幾十年を費やし作り上げた『臆病な梟』は、たかが一人の部下の暴走によって崩されたりはしない……信じて、進め」
「お祖父様……」
「孫を、頼む」
祖父は水から上がったウトラに短く命ずる。
ウトラは小さな体を折って、それに応えた。
「キーラ……ありがとう。お前が健やかに育ってくれたことだけが……人の呻吟と苦悶を喰って生きてきた私の、唯一誇れることだった」
そう言い残して。
森に差す曙光を浴びながら、祖父は満足げに目を閉じようとした。
しかし。
「…………っ!」
その目は開かれ、一点を視線が指し示す。
一瞬遅れて、草を踏みつける音がキーラの耳に届いた。
緊張と警戒を宿して、キーラが仰いだ先には──ひとりの少女が立っていた。
「ふむ」
少女は小さく、声を漏らした。
肩までの長さの黒髪は艶やかで、造作も相まって子供っぽい印象を受ける。
しかし、その大きな瞳の中の光は実際の年齢以上の落ち着きを感じさせた。
なによりも注目すべきは──軽装の服の上に無造作につけられた、東軍の徽章。
「軍人……!」
「その通り。東軍不正規部隊所属──ミズハだ。姓はない」
少女はにっこりと笑った。
まるで屈託のない笑み──もしかしたら、彼女は自分達の素性について何も知らないのかもしれない。
いや、その可能性は高い、とキーラは考えた。梟公は表舞台に姿を現さないし、ウトラは闇に生きる幽霊児だ。そしてキーラも、つい最近までは表社会の中で生きていた人間なのだ。一兵士が見れば、この光景は──老人と、少女が二人。それ以上のものにはなり得ない。この場を切り抜けること自体はそう難しくはないのかもしれない。
計算を巡らせているキーラの内心に構うことなく、ミズハと名乗った兵士はこちらに近づく。
「こんな人里離れた場所で、何かあったのかな? そこの人は怪我をしているようだが、助けが必要だろうか」
よし──彼女はやはり、何も知らない。
キーラは必死で脳を回転させ、言い訳を考える。
「う、ん?」
その時。
キーラたちに歩み寄っていたミズハの足が、止まる。
棒立ちになったミズハ──その時に至って、キーラは彼女の背後に、何かがいることに気づいた。
もやもやとした──影のように曖昧な何かが細長く伸び、ミズハの体に纏わりついている。
その先端は彼女の肩に凭れかかりながら──ずるり、ずるりと前方に身を乗り出していた。
ばくりと、先端が割れる。割れた個所の上方には、空洞のように見える丸いものが二つ。
「…………」
──ああ。
これは蜥蜴だ。
影でできた蜥蜴が、虚ろな目玉をこちらに向けて──大きく口を開けている。
そう理解した瞬間。
蜥蜴は今までの緩慢な動作が嘘のように、まるで突風のような勢いで──こちらに飛び掛かってきた。
「蠱術……!」
咄嗟に身を守るキーラ。
しかし、蜥蜴が飛び掛かったのは──もはや身動きもままならない祖父だった。
「お、お祖父様……!」
蜥蜴が大きな口で、祖父の頭を飲み込む。
そのまま、ずるずると──人ひとりを、一息に飲み込んだ。
「そ、そんな……!」
瞬間──蜥蜴を覆っていた影が、わずかに払われる。
曖昧模糊とした輪郭が、少しだけはっきりとしたようだった。
木の間を縫って差し込む朝日の光が当たり、反射して──その瞬間だけ、大きな蜥蜴はちらりと金色に輝いた。
「ふむ……お嬢さん、済まないね。私の蜥蜴が人を喰ってしまうとは」ミズハはごく落ち着いた声で呟いた。「今までこんなことはなかったんだが……何か特別な人なんだろうか」
「あ……あなた! こんな状況で、何をそんな──」
「ああ! そうだ」
キーラの声を遮って、ミズハは言う。
「これはただの思い付きなんだけれど──今食べられた人、『梟公』だったりするのかな? うん、それならなんとなく筋が通る気がするな……だとすると、あの忍者ちゃんがくれた情報は本物だったわけか」
「…………!」
キーラは愕然とした。
ミズハは──彼女は、ここが『臆病な梟』の本拠地だと知っていた。
しかもその情報を誰かから与えられている──忍者という言葉の意味は分からなかったが、そんなことをするのはカガリの手の者以外にあり得ない。
すでに、カガリ一派は東軍までも味方に引き入れている。
絶望に支配されたキーラの頭が、その時ぐんと引かれた。
「……なっ……」
「キーラちゃん、逃げよう!」
後ろからキーラを抱きすくめ、強く引っ張りながらウトラが言った。
二人は体を傾かせ──つい今出たばかりの泉に、再び落ちる。
何事かを喋るミズハの声が急速に遠くなる──水に体を包まれながら、キーラは祖父を想った。
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