057:「残す必要はない」
闇の中に、噎せ返るような血の香りが満ちていた。
血の香り──それは死の香りだ。
無数の死をかき分けながら、ブフニッツァは暗がりの中を進む。
カガリが去り、無人となった大広間。その中心に、開け放たれた扉から払暁の光が差し込み始めていた。
かすかな光は、刀を持ったまま倒れているシキョウの死に顔を照らしている。
「済まない、シキョウ」
傍まで至り、身をかがめてブフニッツァは古い同志の顔を覗き込む。
見る者を威圧する、シキョウの特徴的な目──見開かれたままのそれを、そっと閉じさせる。
「私の策は功を奏さず、君を死なせてしまった。しかし──今回の戦いは謎に包まれたカガリの能力、それを解き明かす契機となるだろう。我らが梟公への奉公、君はしかと果たしてくれた。心から、感謝を捧げる」
手向けの言葉を終え、ブフニッツァは痩躯を揺らして立ち上がる。
背後の暗がりに声をかけた。
「待機している第三陣に指令──屋敷の防備と、現場の調査を開始せよ。わかったことはすべて文書に起こし、ヤンシュフに伝えるように」
「はっ」
短い応答と共に、気配が消える。
後は頼む、とブフニッツァは胸中で呟く。ヤンシュフは先んじて屋敷から脱出させていた──部下の能力で、梟公様とキーラ様も逃れられた。そこに合流し、速やかに体勢を立て直させる。
奴ならうまくやってくれるはずだ──半ば自分に言い聞かせるように、ブフニッツァはそう強く思った。
「さて、私の仕事は終わった。出てこい」
先ほどとは打って変わって、吐き捨てるようにブフニッツァは言った。
それに応じるように、暗がりから伸び出た手が彼の痩せた肩を掴む。
「拙者の存在に──気づいておられたか」
毅然としてはいるが、どこか甘さの残る女性の声だった。
「いくらカガリでも、シキョウ一人で満足して帰るほど愚かではない。わざわざやってきた以上は一人でも多く我々の力を削いでおきたいはずだ──奴自身がそれをしなかったのは、信頼のおける後詰がすでにいたからだろう」
「話に聞いた通りの聡明さでござるな、ブフニッツァ殿」
「お褒めにあずかり光栄だ──計算通り、お前は脱出するヤンシュフよりも残った私を殺すことを選んだ。奴は深慮遠謀に富んでいるとはいいがたいからな──今後を見据え、策を練ることのできる私を優先して殺そうと考えただろう」
自分の命を餌に──ブフニッツァはヤンシュフを逃がすことに成功した。
組織の命脈をなんとか繋ぐことに成功し、老人の薄い唇は透明な笑みに緩む。
「仰る通り──部下を盾に身を守ろうとせず主のために自らを差し出すそのお覚悟、見事にござる」
闇の中の声は静かにブフニッツァを称える。
その声の言う通り、ブフニッツァはこの危機にあってなお、助けを求めようとはしなかった。
屋敷内にはいまだ十分な人員が残っている──彼らはこの暗殺者に突撃させるのではなく、あくまでしっかりと防備を固めさせる。数的劣勢にある暗殺者にとって、全員に追われるより出口を守られ脱出の難易度が上がる方が嫌な手であるはずだった。
ならば、彼女は速やかにブフニッツァを殺し──戦果を欲張らず、防御が完成する前に立ち去る。
屋敷は、守られる。
最期の時に向かい合ってなお、ブフニッツァの判断は冷静そのものだった。
「そろそろ、お別れの刻限でござるな」
ブフニッツァの首筋に、冷たい刃が押し当てられる。
「辞世の句のひとつも、残されるが良かろう。御所望とあらば、拙者がこの場に書付けを残し申す」
すう、と息を深く吸って。
扉の向こうの白み始めた空を見つめながら──ブフニッツァははっきりと言った。
「Дай Награда добру. Дай наказание плохому.」
「……む。異国の言語でござるか? 申し訳ござらぬが拙者『臆病の梟』に属さぬ外様の臣にて、綴りが分からぬ」
「残す必要はない。私一人のために、言っただけだ」
正しき者に報いを。
悪しき者に報いを。
この数十年──片時も忘れることのなかった、闇の掟。
それを胸に、死にたかった。
願うのは──この精神が、これからの『臆病な梟』にも引き継がれること。
それは、カガリのもとではかなわないことだった。
より強い光が一筋、ブフニッツァのもとに届く。
眩しさに目を細めた、次の瞬間──彼の視界は暗転した。
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