056:「見事に冷酷なる一手」
目にもとまらぬ速さだった──と最初にマキナは思ったが、それは誤解なのだろうとすぐに思い直した。
マキナがカガリと梟公に気を取られている間に、あらかじめ闇の中を回りこんでいたのだ──そうでなければ、体勢を崩した梟公に取り縋ったキーラには説明がつかなかった。
「キーラ」
「お祖父様──危ないっ!」
梟公の胸ぐらをつかみ、下方へ引き寄せるキーラ。
その動きは──奇跡的に梟公の危機とタイミングが合致した。
倒れかかる梟公の肩口を、見えない何かが鋭く抉った。
「ぐ……ぐうっ!」
噴き出す鮮血に塗れながら、苦痛に顔を歪める梟公。
しかし、感情を表情筋に伝えることができるだけ彼は幸運だった──抉られたその位置は、ついさっきまで彼の心臓があった場所だ。キーラの動きが無ければ、梟公はそこここに折り重なる護衛達の骸のように一切の感情を喪失していただろう。
「梟公の孫娘──いらざる手出しは苦痛しか生まぬ。控えるが良い」
消えたはずのカガリは再び元の場所に戻っていた。
こいつは──さっきの一瞬、確かに消えた。今までは気付けなかったが、梟公の圧力によって目を離さずにはいられなかったからこそ視認できた。
ほんの僅かな間──おそらく一秒の何分の一かの間だけ、奴はその場から消失する。あの正体不明の攻撃は、それがトリガーになっているらしい。
「お祖父様……どうか、どうかお気を確かに!」
「キーラ……わ、私に構うな……お前だけでも……」
「次は其方も狙う。未来のある身を、
呻く祖父を庇いながら。
残酷なまでに冷静に告げるカガリを、キーラは睨みつけた。
「左様か」
素っ気ない返事に、マキナはぞくりとした。
梟公の時と同じだ──カガリは一度だけ、相手と対話を試みる。
そしてそれが拒絶された時、未練も粘りも何もなく──攻撃を開始するのだ。
まずい。キーラも殺される。
あたしが出るしかない──そう、覚悟を決めた時。
「キーラちゃああああああああああんッ!」
ざばり、と。
右肩から流れ出て床に広がった梟公の血だまりから、褐色の肌の少女が飛び出た。
「っ!?」
マキナは目を見張った。
まるでそこがプールか何かのように──単なる血だまりから、人ひとりが現れた。
そうか──そういやあいつは、天光軒でフウを連れ去った。
「ウトラ……!」
「大丈夫!? 怪我してないっ!?」
ウトラと呼ばれた少女は泣きそうな顔でキーラに顔を寄せる。
キーラが頷くと、油断なくカガリの方を見返しながら──手負いの梟公とキーラに腕を回し、抱きすくめた。
「蟲術──『
小さな呟きと共に、ウトラの背後の空中に半透明の鮫が現れる。
抱きしめている二人ごと、彼女を守るように──ゆっくりと旋回し、カガリに牙を剥いた。
同時に、ウトラの体がずぶずぶと沈み始める。
大理石の床に広がる血だまりの中に──三人は潜り込んでいった。
「…………」
カガリは──意外なことに、動かなかった。
なぜとどめを刺さない? 奴の能力ならば、一瞬で三人とも仕留められたはずなのに。
再び深い闇の中に身を落ち着けて、マキナは考えた。
「カガリ──観念しろ」
暗中から、声が響く。ブフニッツァの声だった。
カガリがぴくりと反応したのと同時に──数十本の刃が、彼に突き付けられた。
「兵はまだいる。梟公に気を取られ、包囲網に気づかなかったな?」
「包囲網?
自明の理を、ただ確認するかのような。
何の感情もこもらないその言葉に、突き付けられた刃のうちの数本が小さく震える。
「怯えずとも良い──気が萎えた刃は、何も貫けぬ。無益な試みは止し、志を改めて我が道に加わらぬか?」
一度の対話。
しかし、その言葉は──恐怖を振り切るかのような雄たけびにかき消された。
護衛達は自らを鼓舞するように、大声で叫び──遮二無二、刃を突き出す。
「左様か」
予定調和のような、その言葉と共に。
さっきの地獄絵図が再現される。
またしても一瞬で、同時に鏖殺される刺客たち──空中に飛び散る彼らの鮮血が、卓上の燭台の頼りない光に反射してきらきらと輝いた。
「──っ」
その時。
盛大に噴き上げられた血液を、切り裂くように。
朱に染まった空間から、大振りの刀を構えた一人の老人が飛び掛かった。
シキョウ──先程会った『臆病な梟』の三幹部の一人。猛禽のように鋭い眼であやまたずカガリを捉え──文字通り血路を拓いて、大量の血の目くらましと引き換えの一閃を、振り抜いた。
「っ!!」
おそらくは幾十年を費やし、鍛え上げたのであろう剣筋。
確実にカガリ本人を捉えたはずの、乾坤一擲の一閃は──しかし、闇の中に弧を描いた。
避け──られた、のか。
「見事。見事に冷酷なる一手……数十人の命を対価とするその業、限りなし」
戸口の前──元居た場所から数メートル離れた地点にいつの間にか移動していたカガリが、苦しげにそう吐いた。
じわり、と羽根のマントに血が滲む。
赤黒い血に濡れた刀の切っ先に視線をやりながら、シキョウはふっと笑った。
「それでも、命にまでは届かんか」
「然り」
カガリは静かに頷く。
やや遅れて──派手な出血が、シキョウの胸から迸った。
声もなく倒れる老人を尻目に、カガリは扉を開けて外に出た。
逃げるか──手負いの今なら、あたしでも。
そう考えかけて、マキナは顔をしかめた。
いや、そうじゃねェ──もしかするとキーラと梟公を探しに行く気かもしれない。だとしたら、今ここであたしが返り討ちに遭ったら奴らを守るものは誰もいなくなる。まずは安全確認を優先しなければ。
カガリと鉢合わないよう、奥の間に続く扉へ向かう。キーラたちがどこへ行ったかわからないが、推察するにあの少女の能力は水場から水場へ転移するもの──館の中の水場を、まずは探してみなければ。
冷静な思考の裏で、身を焦がすような憤激をマキナは感じていた。
「あたしの存在に気付かなかったはずはねェ……カガリの野郎、あたしに情けをかけやがったなァ……」
放置しても影響はないと。
自分の道を塞ぐ障害にはなり得ないと。
そう断じられた気がして、酷く気分が悪かった。
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