053:「美味しい料理を振舞ってあげる」
「お兄ちゃん、ごはん持ってきたよー」
ざばっ──と、部屋の隅のバケツを通して現れたウトラが、首に掛けたビニール袋を示して無邪気な笑顔を見せた。
「ああ──ありがと」
錆の浮いた配管に凭れたまま、フウは片手を挙げる。
時刻はおそらく夜明け前──食事には妙な時間だったが、前日の昼食以来何も口にしていないフウには有難かった。いつもは客が途切れ始めた夜半に食事をとるのだが、丁度その頃にキーラが現れたせいで夕食を食べ損ねていたのだった。
腕を使って器用に袋を外し、ウトラはラップで密閉された弁当をフウに渡す。袋の中にはさらに二つ、菓子パンが入っていた──こちらは彼女の食事なのだろう。
「ゴミはその辺に片しといて。それじゃ──」
袋を首に掛け直し、バケツに片足を入れるウトラ──思わず、フウは声をかけた。
「あ……一緒に食べないの?」
「えっ」
まったく意外なことを聞いたように、ウトラが目を丸くしてフウを見やる。
「一緒に食べて……いいの?」
「駄目なのかい? 一人より、誰かと食べた方が美味しいんじゃないかな」
それはフウにとってごく当たり前のことだった。
誰かと連れ立って来店し、冗談を飛ばし合って笑いながら食事をとる──客のそうした姿を見るのがフウは好きだったし、友人や家族と囲む食卓はフウにとって大切なものだった。
お兄ちゃんがいいなら──と小さな声で呟いて、ウトラはフウの隣にぺたんと座る。
どこか気恥ずかしそうにこちらをちらちらと見ながら、歯で包装を破いて菓子パンを咥えた。
「好きなものを食べたい年頃だろうけど、いつもパンじゃあ身体によくないよ」
弁当を開け、箸を割りながらフウはたしなめる。ウトラは少しばつが悪そうに、楽なの、と答えた。
他人事ながら、飲食に携わるフウはウトラの栄養事情が気にかかった。栄養のある食事をバランスよく摂らなくては、健康や発育に関わる──手厚い世話を受けているわけでもないウトラにとっては、より一層気を配らねばならない問題だった。
「ねえ、ウトラちゃん──このごたごたが落ち着いたら、一度俺の店においで」
「えっ?」
「俺は料理人なんだ。これでも、店はちょっとした評判なんだぜ──美味しい料理を振舞ってあげるからさ」
「……変なの」ウトラは奇妙な表情を浮かべ、フウを見やる。「私はお兄ちゃんを拉致してるんだよ? それなのに、まるでそんなことなかったみたいに優しいなんて」
「立場によって、色々と事情はあるさ。話を聞いた限り、あのキーラって子もそう悪い人には思えないし──俺自身、何か乱暴なことをされたわけでもない。今のところ、君達を憎んだり恨んだりする理由がないよ」少し間をおいて、フウは片眉を下げて微笑んだ。「服は濡れたけどね」
「ふふっ──」
呆気にとられたような表情が、ゆっくりと緩み──ウトラは笑った。
「私ね、キーラちゃん以外の人と一緒にごはんを食べたことなんてないんだ。だからね──もしそうなれたら、嬉しいなあ」
その語調に、フウは違和感を覚えた。
ふわりとした軽さを持つその声は、柔らかく穏やかだったが──まるで空想を語るかのように、現実感が欠如していた。
ウトラは。
ごくささやかで平凡な──人として生きていれば当たり前に経験する光景にすら、自分を繋ぐことができないのかもしれない。
店で、食事を振舞われる──たったそれだけのことですら、ありえないことを夢見るかのような隔たりをもって想像してしまうのかもしれない。
それは
「楽しみだな。楽しみだねえ。きゃっきゃっ」
フウのそんな思いをよそに、ウトラは屈託のない笑い声を上げてはしゃいでいた。
食事を終えた頃。
動かない手でゴミをまとめていたウトラが、ぴくりと肩を震わせる。
「……お兄ちゃん、私ちょっと行ってくるね」
「どうかしたの?」
「うん──連絡だよ」
ウトラは空中を見つめ、眉根を寄せて何かを読み取っていた。
組織の連絡──何らかの呪術による交信なのだろうか。
はっ、と小さく息を吐いて、ウトラは表情を厳しくした。
「カガリだ──カガリが梟公様の屋敷に向かってきてる」
「え……」
「キーラちゃんはもう着いてるはず……キーラちゃんが危ない。ごめん、急ぐね」
機敏な動作で準備をこなし、ウトラは部屋の隅に駆け寄る。
バケツの中に踏み込む彼女の背中に、フウは声をかけた。
「約束を忘れないで。生きて──戻ってくるんだよ」
手をぶんぶんと振って、それに応え。
肩越しに微笑んで、ウトラは水飛沫と共に消えた。
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