050:「無伴奏の独唱」

 

 鬱蒼と茂った木々の奥にある、小さな石段。

 それを登りながら、マキナはうんざりとして溜息をついた。

 何度も馬車を乗り換え、さらに慣れない山登りまでしたせいでとっぷりと夜は更けている。丑三つ時はとうに越え、あといくらもしないうちに空が白み始めるだろう。

 マキナの吐息に反応してキーラがちらりとこちらを向き、すまなそうに眉根を下げる──しかし言葉は発さずに、少し速度を上げて石段を登って行った。

 馬車の中で口論になってから、ずっと気まずい雰囲気だった──我ながら冷静さを欠いていた、とマキナは少し反省する。

 経倉大吉。

 その名がマキナにとってどれほど不快なものか、キーラには推し量りようもない。あそこまで声を荒らげるべきではなかったのかもしれない。しかし──そうだとしても、自分の過去に無遠慮に触れてこられたことについては、未だに怒りが収まらなかった。

 

「お手間をおかけしました──到着です」

 

 一足先に石段の頂上に着いたキーラは、そう言ってマキナに一礼する。

 石段はなだらかな勾配に沿って設置されている──その頂上には、瀟洒な石造りの邸宅があった。

 

「……都会の一等地にでも建ってそうな豪邸だ。ろくに造園もされてねえ山の中にぽんと置かれてるのはおかしなもんだな」

「ここは──梟公の生活する場所でもあるんです。不自由のない広さと設備が必要で、さりとて大っぴらにするわけにもいかないので」

「まァ、そりゃそうだな」

 

 投げやりに答えながら、マキナは無造作に扉を押し開ける。

 玄関ホールはほとんどが闇に塗り込められていた──蝋燭の灯がちらほらとあるものの、建物の面積にまるで追いついていない。頼りない明かりの間隔から、空間のだだっ広さを大づかみに推定できる程度の役割しか果たしていなかった。

 

「お待ちしておりました──」

 

 闇の中から、朗々とした声が響く。

 二人のもとに届いたその声に、後から肉体が作り添えられたかのように──声に遅れて、一人の老人の姿が目の前に現れる。

 上等なものらしいダークスーツを身に纏った、身綺麗な老人だった。やや少なくなった頭髪はオールバックに撫でつけられ、顔面の下半分を覆う真っ白な髭にも絡まりはない。細い眼の奥の光には、理性と冷徹さの色が宿っていた。

 

「私はブフニッツァ。『臆病な梟』三人の最古参幹部が一人でございます。よくぞおいで下さいました。新たな梟公──キーラ・アレクセエヴナ・ベルミノヴァ様とお見受けいたします」

「はい。私がキーラです」キーラは緊張で幾分か上ずった声を上げる。「こちらは『死にたがりの鼬スーサイド・ウィーゼル』或塔潤蒔菜様──我々に協力してくださる方です」

 

 瞬間、ブフニッツァと名乗った老人の冷たい瞳がマキナを値踏みするようにねめつける。

 用心深そうな彼のその視線はお世辞にも歓迎の意を含んでいるようには思えなかったが──しかし、ブフニッツァは黙って会釈をした。

 

「……結構。キーラ様、奥の間にお食事の用意ができております。梟公もすぐにおいでになります」

「食事? こんな時間にか?」

 

 疑問の声を上げたマキナに、キーラがすっと近寄って耳打ちする。

 

「一種の儀礼のようなものなのです──昔、祖父に聞きました。食事や睡眠など、本能的な欲求に根差した行動をとる時、人は最も無防備になる。だからこそ裏社会の人間は警戒を怠らないため人前でそうしたことを明け透けに行わないのだと──ゆえに、この世界で『共に食事をとる』ということは、相手への信頼や裏のない忠誠を表す慣例的意味を持っているのです」

「……ふうん」

 

 ブフニッツァは二人の会話に何も言葉をはさまず、表情一つ変えることすらしなかった。ただ抑制された態度で、会話を終えた二人に奥の扉を示す。

 彼に先導され、二人は闇の中に浮かぶように見える扉を潜った──その先には豪勢な料理の準備された大きな卓と、その両脇を守るように跪いた二人の老人がいた。

 

「キーラ様、お目にかかれて光栄です。私はヤンシュフ」

「我が名はシキョウ。同じく、光栄の至り」

 

 貫禄のある陽に灼けた肥満体の、禿頭の老人。

 対照的に痩せぎすだが鋭い眼をした老人。

 口々に挨拶を述べる彼らの横に移動し、ブフニッツァも同じように跪く。

 三人の老人は、声を揃えた。

 

「御決心頂いたことに心より感謝致します──我らはキーラ様を新たな梟公と認め、全霊の忠節をお誓い申し上げます」

 

 数秒の間をはさんで。

 小さく深呼吸をしたキーラが、静かに言った。

 

「ダイ・ナグラーダ・ダブロ。ダイ・ナカザニェ・プロホム」

「ダイ・ナグラーダ・ダブロ──ダイ・ナカザニェ・プロホム!」

 

 三人の幹部が復唱する。

 マキナには意味が分からなかったが、組織の誓いの言葉か何かなのだろうか。

 

「──よく来た」

 

 頭上から声が降ってくる。

 それは決して大声ではなかったが──まるで空間を切り裂き飛来したかのように、この場の全員の耳に確かに届いた。

 しわがれて重々しい──しかしどこかもの悲しさを感じさせる。

 音楽家のマキナには、その声はまるで無伴奏の独唱のように聞こえた。

 

 全員が、声のもとを仰ぎ見る。

 食堂の中心部から伸びる螺旋状の階段──そこから繋がる、吹き抜け状になった二階。

 そこに、闇を纏った小さな人影があった。

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