049:「近すぎれば見え難きもの」

 

 チルは、闇に支配されつつある森の中を高速で駆けていた。

 自分の足でではない──チルは背負われていた。

 黒装束を身に纏った、自分よりもいくらか年長らしい少女──望月まきびと名乗ったこの人に。

 チルは、いくらか迷ってから遠慮がちにまきびの肩を叩く。

 

「ああ、失念しておった。もう喋っても大丈夫でござるよ」

 

 野生の獣のようなしなやかさで木々の間を縫うように走りながら、平静そのものの声音でまきびは応じた。

 

「あのぉ……まきびさん、でしたよね」

「うむ。拙者、望月まきびと申す。生まれは西部、嗣之備しのびの里──いや、そなたは聞いておったな」

「はい。あの、私はチルです」

「知っておるよ」

「知ってる……?」チルは訝しく思い、言葉を続ける。「あの、それは……私を助けてくれたことと関係あるんですかぁ? というか、どうやって」

「うむ、そなたには実感がなかろうな。あの場にいた者には、そなたが一瞬で絶命したように見えたはずだ」

「ふぇ……!?」

 

 チルは面食らった。絶命、とは。

 少なくとも、チルの覚えている限りでは──ミズハが急に戸惑いを見せた次の瞬間、チルの額に小石が当たった。起きたことはそれだけだった。

 その小石には紙が結えつけられており──そこには「緘黙」と書かれていた。読めなかったが、「黙」という言葉が入っていたからとりあえず黙って静かにしていた。そうしていたら、なんだかよくわからないうちにあれよあれよと脱出が成った、のである。

 

「呪術……ですかぁ?」

「うむ。幻惑魔じゅ……ゴホン、いや。これは忍法でござる」

「ニンポウ……? あのぉ、いま魔術って」

「忍法でござる」

「はあ……そうですかぁ……あの、とにかく、ありがとうございます」

「礼には及び申さぬ」まきびは少し照れたように苦笑いをした。「拙者、恥ずかしながら少しばかり勝手を致した」

「勝手?」

「うむ。実はな──我が主君には、『臆病な梟』旧体制派の構成員に対しては基本的に敵という認識で臨め、と因果を含められてござる」

「あ……」

 

 彼女──まきびはカガリの部下だと言明していた。

 カガリは下剋上を目論む要注意人物──やはり、そうだったのか。

 

「だから、そなたの命だけは助けたものの──今後表立って我が主君に楯突くような真似は慎んでもらわねばならぬ。急な話でござるが」

「えぇ……でも、そんなこと言われても……」

「そなたも仕えの身、そう簡単には首を縦に振れぬでござろうな」まきびは自嘲するようにかぶりを振る。「最初から無理な申し出であることは理解してござる。拙者の判断が、後々厄介の種を生むやもしれぬことも……しかしながら、助けぬわけにもいかなんだ」

「どうして……ですかぁ……?」

 

 まきびは少し黙った。

 特殊な歩法のためか、ごくわずかにしか響かない草をかき分ける音だけが鼓膜を揺らす。

 ややあって、少し低い声でまきびは語り始めた。

 

「拙者の生まれた嗣之備の里では、全員が闇から闇へ生きる『忍』として生きることを義務付けられておる」

「しのび?」

「隣国、日本では諜報や暗殺を行う特殊工作員をそう呼ぶのでござる。我が先祖は日本から移住してきたそうでな──里の名の『嗣之備』もその名残でござろう」まきびは相変わらず、走りながらとは思えない平板な口調で話す。「まあ、それはともかく──忍はその一生のほとんどを、潜伏して過ごす。顔が割れたり名が広まっては任務に支障を来すゆえな。拙者にはそれが耐えられなかった──掟を破り、半ば勘当されるような形で里を飛び出した。もう二度と里には戻れぬ。拙者は『抜け忍』なのでござる」

「抜け……忍」

「広い世界を、見たかった」まきびは呟くように言う。「そのために何もかも捨てたのでござるが──だからといって、捨てたものが惜しくないわけではござらぬ。故郷が、友が、家族が──恋しくてたまらぬ時もある」

「…………」

「拙者には妹がござる」まきびは前を向いたまま、少しだけ笑った。「拙者に似ず、忍の責務を立派に全うしておる妹──丁度、そなたと同じくらいの年頃のな」

「……まきびさん」

 

 まきびは自分にその面影を重ねているのか。チルはそう思った。

 

「だから──すまぬ、そなたを助けたのは拙者の勝手な感傷に他ならぬ。恩を着せるつもりもござらぬ──ただ、そなたを失う家族の悲しみに自分を重ねてしまっただけでござる」

 

 チルは返答に困った。

 まきびは幸福だ。少なくとも、自分よりは。

 チルは家族の顔すら知らない。生まれ故郷がどんな街で、どんな生活がそこで営まれているかもまったくわからない。昔を懐かしみ、後悔することすらできないのだ。

 まきびはチルが死ぬことで家族が悲しむと言ったが──自分には、そんな家族は。

 

「絆は、近すぎれば見え難きもの」

 

 ぽつりと、まきびが言った。

 

「……え……?」

 

「拙者の主任務は情報収集──『臆病な梟』旧体制派の動向を逐一監視しておった。そこには多くの人間が関わり、その数と同じだけの思いがあった。ウトラ、ランプジャック、デルモニー、トリナ、ダグラス……この名に覚えは?」

「…………!」

 

 その名は。

 チルと同じく、『臆病な梟』に所属する幽霊児ゴーストの名前だった。

 粗雑に扱われ、次々と死んでいく報われない子供たち──その中で、チルのように何とか生き延びた数少ない幽霊児ゴースト

 能力を得て、あるいは実績を積み重ね、次第に利用価値を認められて互いに別の任務に従事するようになり──顔を合わせることもほとんどなくなった、彼ら。

 

「皆、任務に赴いたそなたの身を──案じておったよ」

 

 その言葉は──チルの胸の中の何かを、壊した。

 ずっと、一人だと思っていた。

 いいように利用され、馬鹿にされ、軽んじられ──信じられる人も支えてくれる人も、一人もいないと思っていた。

 どうして、気づかなかったのか。

 彼らも同じだった。

 同じように悲惨だった。

 そして、同じ身の上のチルを──心配してくれていた。

 自分がその思考に至れなかったことが恥ずかしくて。

 皆の暖かさが嬉しくて。

 色々な感情に押し流されるように──とめどない涙が、両眼からあふれ出た。

 自己憐憫に浸って流したそれとは違う、熱い涙。

 チルは声を上げて、まきびの背中にしがみついて──泣いた。

 

「帰れ、家族のもとへ」

 

 まきびはそう言ったきり口をつぐんで、闇の中を進む速度を上げた。

 雲と木の葉の間から零れ落ちる月の光だけが、切れ切れに二人を照らしていた。

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