048:「今の話、ご内聞に」
がくり、とチルは地に顔を伏せる。
まさに一瞬の出来事だった──敗北したチルを息をつく間もなく始末した刃に、ミズハは無造作に手を伸ばす。
「触れぬがよろしい」
凛とした声が、木立の間の暗闇から響く。
下生えをかき分けて──しかし奇妙にもほとんど音を立てずに、闇の中から人間が現れた。
薄紫色の霧と共に姿を現したそれは、ぴたりと体に張り付くような黒装束を纏った──おおよそクリスと同年代くらいの女性だった。
顔の下半分と頭にも黒布が巻かれ、こぼれ出る艶やかな髪と大きな瞳だけが女性的な美しさを保っている。
「それには毒が塗ってござる。素手で触れればたちまち皮膚を冒し、肉を痺れさせる──指先に小さな傷でもあろうものならすぐにも体内に回り」黒衣の女性は黒手袋に包まれた両手を示し、小さく肩を竦めた。「お陀仏、でござる」
「さようでござるか」
緊張感なくミズハが答える。
場違いなおふざけには慣れっこだと言わんばかりにクリスは少し眉を上げた。
大して黒衣の女性はわずかに覗く目元を紅潮させる。
口調についてからかわれ慣れていないのか、悪いことをしたかな──と思いながら、ミズハは問いかけた。
「ずいぶん親切だね? これから始末しようという者に対して。間諜のような出で立ちとは裏腹に、存外フェアプレー精神をお持ちなのかな?」
「始末? ああいや、誤解でござるよ」
黒衣の女性は慌てたように手を振る。
「拙者はそなたらの敵ではござらぬ。むしろ──共通の敵に対する者、と思って頂きたい」
「ふうん?」
彼女はミズハらと同じく『臆病な梟』に敵対する存在──チルを殺したのはそれゆえのことで、こちらにとってはどちらかと言えば味方寄り、ということか?
曖昧に頷いて、ミズハはとりあえず話に乗ることにした。
「私はミズハ。こっちはクリス──東軍臨時治安部隊に所属している。君と、君の掲げる旗について教えてもらえるかな?」
「拙者は望月まきびと申す」黒衣の女性は胸に手を当て、礼儀正しく目礼した。「生まれは西部、
「現体制打倒?」クリスが耳ざとく聞き返した。「それはつまり──内部抗争ということ? あなた達も『臆病な梟』の構成員というわけなの?」
「おっと──そこまで明かしてよいか分からぬ状況であったか」
まきびと名乗ったその女性は、あちゃーと言いたげな表情を浮かべる。
「うむ、拙者、機密保持には向かぬ。今の話、ご内聞に」
それはさすがに無理のある話だろう、と言いたいがミズハはとりあえず黙って頷く。
まきびは懐から紙片を取り出し、ミズハに放って寄越した。
「『臆病な梟』旧体制派の結束は固い──懐柔策はそう簡単にはいかぬと心得られるが良かろう。本拠地の場所はそれに記してある──我らとしても国軍が動くのは好都合、遠慮なく受け取られよ」
「不確定な懐柔策より利害の一致を信じろということだね。まあ、こちらとしては有り難い話だけれど──国軍の介入が好都合とは、ずいぶん大きく出たものだね? 君たちの目的が組織の乗っ取りだとするなら、内輪だけで完結させてしまった方がリターンは大きいはずだけれど」
紙片を拾い上げながらも、ミズハはまきびから視線を外さない。
警戒を怠らないまま、探りを入れた。
「大きく出た──でござるか。そのお言葉、そのままお返ししたく」まきびは薄く笑って答える。「『臆病な梟』の根は深く、組織は強固でござる──いかな国軍とて、すべて打ち崩してしまえるとお思いか?」
「私たちが消耗し合い、最終的に君の属する一派がすべてを掻っ攫えると?」
「細工は流々、仕掛けを御覧じろ──でござる」
「なるほど。まあいいか──とりあえず今のところは、君たちの自信が本物だと信じることにするよ」
「然り。決着はいずれ、明らかになろう」
まきびはすっと両手を組み合わせ、何かの印を結ぶ。
低い声の呟きと共に、あたりに漂っていた霧が渦を巻き始めた。
「“Spar rat para. Crlow hat backew arl kie mi con. Uos mi gmoi”──
最後の掛け声とともに。
まるで急に場面が転換したかのように──周囲を満たしていた霧が粒子一粒も残さず、一瞬で消滅した。
目の前にいたはずのまきびごと──まるで最初から存在しなかったかのように、消えた。
「……クリス、今のは?」
「魔術言語──『呪文』を用いていたし、魔術でしょうね。そちらには詳しくないから分からないけれど」クリスは顔をしかめてミズハを見返す。「なんにせよ、正体は不明だわ。あの人も、その背後にいるらしいカガリという人物も」
「そうだね──」
しかし、とりあえず次の行動への足掛かりはできたわけだ。
紆余曲折あったものの、ミズハとクリスの当初の目的はほぼ達せられた──それに反して気の毒なのは結局最後まで周囲に利用され、死んでしまったチルだ。
彼女はただ自分の境遇を恨み、哀れんだまま人生を終えてしまった。
チルがこの先前を向き、『願い』をその胸に抱けていたとしたら──利用する意思が根底にあったとはいえ、ミズハの誘いも彼女にとって意味あるものになったかもしれないのに。
そう思ってミズハは足元を眺めやった。
「…………うん?」
思わず、首を傾げる。
チルの死体が、消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます