046:「思い出すらも、何一つ」
「……突然、何を言うんだい?」
静かに問うミズハを、チルは下から掬い上げるような視線で見つめる。
「だって……私なんかを仲間にしたい人なんて、いるわけないじゃないですかぁ」
その表情は今までのものとは明らかに異なっていた。傷つきやすく無垢な少女の表情ではなく、何の感情も浮かんでいない──言うならば、絶望だけが積み重なった結果のような虚無に満ちた表情。
この短時間で彼女が変わったのではない──さっきまでの顔も、今の顔も、どちらも彼女自身なのだ。ミズハはそう思った。
「私はチル。姓はない──名だって、つい数年前に適当に自分で付けたものなんですぅ」チルの瞳に、作り物めいた自嘲の色が浮かんだ。「お父さん、お母さんに貰ったものは何もないんですよぉ。思い出すらも、何一つ」
「
事故や病気などの家族との死別による孤児ではなく、「生まれながらにして」不要な存在と断じられ、捨てられた子供。
確かにそこにいるのに、いないことにされ社会から無視される──生ける幽霊。
そのような存在の多くは、生きるために裏社会に堕ちることになると知ってはいた。表社会とのしがらみどころか、そこに存在することを証明する手立てすらない人間は、後ろ暗い仕事をする連中にとってはこの上なく都合のいい駒だからだ。
しかし、そのような理由で保護された子供がまともな扱いを受けるわけもない。
「最初の記憶は、暗くて大きな部屋です。周りには、同じ年ごろの子供たちが沢山いて──私たちに向かって、怖そうなおじさんが何かを話してました。幼い私はね、その時ぼんやりと期待を抱いていたんですよぉ。こんなにいるなら、私にも初めてともだちができるかもしれない、なんてね──でも、それどころじゃなかったんですねぇ。みるみるうちに、子供たちの数は減っていきましたから」
チルはしばし遠い眼で、木々の向こうの空を眺めやる。
「何かの実験に使われて病死する子……何かの抗争の罪を被って敵対組織に差し出され、嬲り殺しにされる子……命がけの囮に駆り出され、あるいは全身に爆弾を巻いて敵のいる場所に突っ込まされる子……いくらでも替えがきく私達は、身体や心、命までもあっさりと使い捨てられてきたんです」
チルがふとこちらに視線を戻す。
眼鏡の奥の瞳には、怒りも、悲しみも──虚しさすら、存在しなかった。
不気味なほど無機質な瞳で、ごく簡単な問題に答えるかのようなそっけなさで、チルは言う。
「だからねぇ──そんな私なんかに、価値があるわけないじゃないですか。あなたは私を騙そうとしているだけでしょ?」
ふう、とミズハは静かに息を吐く。
対等な人間としてコミュニケーションを図ったことがそもそも間違いだったというわけか──チルは自らを、権利を持った人間だと見なしていない。損と得を比較して得の方につくという考え方が、自分の進む道を自分で決めるという概念が存在しなかったわけだ。
少しだけ首を傾げて、ミズハは口の端だけで笑った。
「何も言わないんですねぇ……やっぱり、やっぱりそうなんですねぇ……優しい顔をして、私を騙して利用しようとしてたんでしょぉ……この人酷い……」
チルが押し殺すような小声でそう言って、ぶるりと体を震わせる。
瞬間、半透明の小さな塊が無数にチルにまとわりついていることに気づいた。
ぞろぞろと彼女の全身を這い回りながら、ぬめって白く光る悍ましい蟲。
「蠱術──『
低い声でチルが呟く。
ミズハの視界の端に動くものが見えた──茂みから這い出てきたそれは、一匹の野鼠だった。そこら中に散乱する肉と血の臭いを嗅ぎつけてきたのか。
鼠は小さな鳴き声を上げ、焦げた松伏の死体に向かう──次の瞬間、小規模な爆発が起きる。
地雷が鼠と共に吹き飛ばした、小さな石──それは爆炎の勢いに乗って弾丸となり、棒立ちになっているミズハの右腕に食い込んだ。
「……! くっ……」
痛みに顔をしかめる間もなく、頭上で再びの爆音。
小鳥か何かがスイッチを踏んだのだろうか──火に包まれた大ぶりの枝が、クリスのすぐそばに落ちた。
その圧力にわずかに体を傾がせるクリス──足を動かすことだけはなんとか耐えたが、その横顔には冷や汗が光っていた。
予想以上に厄介な能力だ──とミズハは考えながら、チルを見やる。
チルはただ黙って、虚無そのものの表情でこちらを見返していた。
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