第四章──梟と名の無い幽霊と目覚める蜥蜴
042:「最近の若い者は」
東部最大都市──礼寧。
人の多く住む都市には、表と裏がある。陽の当たる場所と、当たらない場所がはっきりと分かれている。それは大きい街だから生まれるというものではなく、おそらく密度が上がることで見えやすくなっているだけなのだろう。
人と人とが関係するとき、表と裏が発生するのは不変の真実なのだから。
それで言えば、ここは礼寧の「裏」の一面──低所得者や脛に傷を持つ人間が吹き溜まる裏通りの一角。古ぼけて汚れた一軒家の中で、一人の老人が声を荒らげていた。
「無礼な若造め──敬意を持たん糞ガキと話なんぞしたくないわい。その無粋な玩具を仕舞ってさっさと帰れ!」
「無礼も無粋も承知ですが──こちらも警戒を解くわけにはいきませんので」
ユークは眼前の老人に向かって静かに答え、手に持った拳銃を握り直した。
「その意味では御老人、あなたの言葉には一つだけ誤りがある。俺の全霊の警戒は、あなたの脳天をあやまたず捉えているこの拳銃は──あなたへ向ける、敬意の形の一つに他ならないのだから」
「持って回った言い方を気取るんじゃないわい、洟垂れの小坊主が」
「洟垂れ……」
鋭く尖ったナイフのような罵倒が胸に突き刺さり、ユークは顔を歪める。
老人はユークの傷心をつぶさに見て取り、皴だらけの顔一杯に愉快そうな笑みを浮かべて背筋を伸ばす。
彼が座った年代物の椅子が、ぎいぎいと耳障りな音を立てた。
「気に障ったか? 事実をそのままに述べただけじゃがな。栄養不足のひょろ長い青モヤシが──ちゃらちゃらと着飾りおって、中身も伴わん虚飾に意味などないと悟らんうちは甘ったれの赤ん坊と何一つ変わらんわ、馬鹿め」
「御老人……言葉に気を付けて頂きたい」
左手でサングラスを直し。
震える声で、ユークは言った。
「御放言が過ぎますと……俺、泣き喚きますから」
「泣き喚くのかっ!?」
脅しでも何でもなくただの弱音だったユークの言葉に、さすがに意外そうに眉を上げる老人。
あまりといえばあまりな問答にさすがに毒気を抜かれたらしく、老人は軽くかぶりを振って語調を改める。
「……で? 一体何の用なんじゃ、若造。口ぶりからすると、儂をただの年寄りと侮って押し込みに入ったわけでもなさそうじゃが」
「無論です。あなたのことは重々承知しています──かつて『臆病な梟』の重鎮として名を馳せた大侠客、マトヴェイ・ザハコロフ氏。それがあなたの正体ですね?」
「訂正せい、若造!」老人は額に青筋を立てる。「言うに事欠いて『かつて重鎮として名を馳せた』とは何事か──儂は引退も何もしておらん! 現在も変わらず、東部を裏から糸引く『臆病な梟』の柱石、功労者にして最重要人物じゃ!」
「残念ながら、客観的に物事を見る必要があるようですね」ユークは暗い室内に低音の呟きを放出する。「未だに、あなたがご自身で仰るような重鎮であられるなら──こんな粗末なあばら家で不遇をかこっていることの説明がつかないでしょう」
「黙れ! 貴様如きに何がわかる!」
「こちらは正確な情報を掴んでいるのです。あなたに──」
「いきがるな、ヒヨっ子! 母親に読んでもらった絵本だけで世間を分かった気になるんじゃないわい!」
「いや、そうではなく──」
「誰の入れ知恵か知らんが、さっさと消えろ! 貴様のような半端者は誰からも相手にされない一生を送るのが分相応なんじゃ!」
「いや、あの……」
「貴様とは比べ物にならん経験を持つ者の前で偉そうにわかったような口を利く、それだけで貴様の愚鈍と無能と腐った性根が丸わかりじゃ! 言葉を交わす値打ちもない塵芥が!」
「……泣き喚きますよ?」
「だから何なんじゃその妙な脅しはっ!」
ユークはサングラスを外し、声を張り上げすぎて息を荒らげているマトヴェイをまっすぐに見据える。
涙の溜まった両眼を見て、マトヴェイはようやく黙った。
「……結構。話を続けさせてもらいましょう」
「最近の若い者はわからん。心底」
気持ち悪そうにこちらを見ているマトヴェイに向かって、ユークは話を続ける。
「申し遅れました、俺はユーク──南部の『フロムドーン・ティルダスク』から参りました」
「フロム……」マトヴェイの目が鋭くなる。「ああ……純喫茶の所のモンじゃったか。ふん、その名を聞くのも久しぶりじゃな──店主の小娘は変わりないか?」
「ええ、元気です。やはりマミーとお知り合いなのですね……興味本位で尋ねるのですが、マミーとはどういった?」
「昔にいくつかの仕事を一緒にやった。それ以上は、貴様に言う必要はない」
「……そうですか。まあ本題とは無関係な話です」
ユークはサングラスをかけ直し、小さく息を吐いて話を続ける。
「マミーから、旧知のあなたに忠告を預かってきました。近々、『臆病な梟』は危機に陥る──身の処し方にはくれぐれも注意を払ってほしい、と。必要であれば、あなたの身分を隠しこの東部から脱出させる用意もございます」
「小娘が、大きなお世話じゃ」
マトヴェイは鼻を鳴らし、傍らの小机に置かれていた酒瓶を取った。
栓を抜き、しばらくそのままで動きを止め──不意にユークを睨む。
「気の利かんガキじゃな。お前の左手側の戸棚の中にグラスがある、取れ」
「……言ってもらわなきゃわかりませんよ」
「それが気働きというもんじゃ。儂が若い頃は目上の人間の前では常に神経を研ぎ澄まし、必要な行動について考えることをひと時も欠かしたことはなかった──まともな教育を受けとらんガキはこれだから嫌なんじゃ」
「…………」
「おい、一つ取ってどうする。無粋なガキめ、貴様も付き合え」
「気持ちはありがたいですが、強い酒は飲めません」
「はっ──どこまでも甘ちゃんじゃな。使い走りにせよ、こんなガキを使っとるようじゃ小娘もよほど人集めに難儀しとると見える」
「辛い……」
もはやストレートに弱音を吐くユークを尻目に、マトヴェイはグラスに酒を注いで一息に呷った。
「ふう──まあ、状況はお前たちに教えてもらわんでも掴めとる。ブフニッツァ、ヤンシュフ、シキョウ──幹部のあいつらだけに任せておくには、やはり無理があったということじゃな。奴らが頭を下げてくるなら今からでも儂が部下どもを引き締めてやっても良いんじゃが、おそらくそうはならんじゃろう。儂の才能と実績に嫉妬して上層部から追い出したあいつらに、今更そんなことができるはずもない。無能に限ってプライドだけは一人前なんじゃ。なあ?」
「……はあ。詳しい事情は知りませんが」
「ふん、もう良いわい。お前のような若造じゃ話し相手にもならん──自分のことは自分で対処できる、小娘にはそう言っておけ」
「……伝言は確かに伝えました。気が変わったら、『フロムドーン・ティルダスク』にご連絡を」
一礼し、ユークは拳銃を構えたまま後ずさりして部屋を出る。
戸外に出てから、薄汚れた家を見やってため息をついた。
「齢と共に狷介さに歯止めが利かなくなり、疎まれて冷や飯食いになった古参の元幹部──か。マミーの伝言の意味、腐っても元大侠客なら理解していると思いたいけれど」
老人を殺すことになるのは、忍びない。
たとえ、あんなに嫌な性格でも。
もう一度深くため息をつき、ユークは闇夜の中をゆっくりと歩き始めた。
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