041:「評してはならない」

 

 その大広間は、ほとんどが闇に支配されていた。

 だだっ広い部屋の真ん中に据えられた大きく重厚な卓、その中心にある純銀の燭台。そこで燃える蝋燭の火だけが、空間を取り巻く闇に対抗し得る唯一の光だった。無論、その戦いはあまりにも劣勢で──あまりにも頼りない光が、球のようにぼんやりと広間の中心に浮かんでいるに過ぎなかったが。

 卓に添えられた四脚の椅子のひとつに座り、その小さな光を見つめる老人がいた。

 口元と顎から長く伸びる白髭に、落ち窪んだ小さな眼──萎れた小さな体躯も相まって頼りなげな印象を受けるが、光を見つめるその目つきは鋭い。

 上等の黒スーツに枯れ木のような体を包んだその老人は、「ブフニッツァ」と呼ばれている──『臆病な梟』旗揚げ当初から組織を支え続けている、最古参の幹部の一人であった。

 ブフニッツァの目の前には、贅を尽くした食事が用意されている。朧げな光によって遠慮がちに像を保っているだけの状態でもなお、その豪勢さは疑う余地もなかった。

 しかし彼はナイフもフォークも手に取らず、ただ燭台の光だけを見つめていた。

 

 背後に扉の閉まる音を聞き、ブフニッツァは振り返る。

 闇の中から曖昧な輪郭を徐々に浮かび上がらせながら卓に近づいてきた男に向かって、痩せた手を挙げた。

 

「ヤンシュフ」

「よう、ブフニッツァ。お前は変わらないな──この齢になってしまえば、変わらないということはむしろ喜ぶべきことかもしれんな」

 

 ヤンシュフと呼ばれた男は答えながら、ブフニッツァの対面の席へ回り、身を投げ出すように腰を下ろす──肥満体に耐えかねるように、上等の椅子が小さく軋んだ。

 

「しかし久しぶりだな。俺たち三人が顔を合わせるのは何年振りか──シキョウはまだ来ちゃいないのか」

「ああ、遅れているようだ」

 

 多弁なヤンシュフの問いかけに、言葉少なに応じるブフニッツァ。

 語調だけでなく、二人はあらゆる点で対照的だった──ヤンシュフは浅黒い肌の肥満男で、顔面には髭どころか一毛もない。大きな黒眼鏡の奥にある瞳はぎょろりと大きく、それに釣り合うように鼻も口も豪快そのものの形をしている──二人に共通しているのは『臆病な梟』幹部の正装である黒スーツだけだった。

 

「今日のこの場……どういう目的の集まりか、お前は知っているんだろうな?」

「……君の想像通りだろう」

 

 身を乗り出すヤンシュフには一瞥をくれるのみで、わずかな身じろぎもせず蝋燭を見つめ続けながらブフニッツァは答える。

 

「もうすぐ後継者──梟公の孫娘が到着する。最古参の幹部三人が、梟公の面前でその少女に忠誠を誓う──我らが王はそれをお望みだ」

「先方にとっても急な話だな」ヤンシュフは懐から葉巻を取り出し、カッターで端を切り落として咥えた。「今まで堅気の世界にいて裏の世界はまるで知らない、しかも年若い娘──梟公の決めたことに疑いを持ちはしねえが、酷ってもんじゃねえか?」

「ああ」

 

 ブフニッツァは頷く。ヤンシュフの言う通りではあった。

 堅気の世界で血縁者が事業を引き継ぐ。よく聞く話ではあるが、大体の場合うまくはいかない。よほど修業を積んで、先代を引き継げるような、少なくともその可能性を見ることができる者でなければ部下はついていかない。いわんや、この裏の世界においてをや──だ。

 しかし、だからこそこの三幹部が今日ここに集まったのだ。ブフニッツァはそう考えていた。

 この世界の酸いも甘いも知り尽くした老兵が支え、盛り立てれば、素人が頭でもなんとか組織は回る。梟公の措置にそうした信頼を感じ、ブフニッツァは誇らしさを胸に抱いていた。

 だが。

 

「……カガリ」

 

 小さな呟きに、ヤンシュフがぴくりと反応する。

 この暗がりの中で見ることはできないが、黒眼鏡の中の眼が細められる気配を感じた。

 

「そう、カガリ。あの野郎こそが問題だ──あいつさえいなければ、梟公の代替わりはいくつかの難所こそあれど大筋うまくいくだろうと見通しを立てられた。逆に言えば、この機以外にあいつが自らの野心を露にするチャンスはなかった──巡り合わせを恨むよ、俺ァ」

 

 ヤンシュフが大げさなため息とともに言う。

 黙って頷くブフニッツァを見やって、彼は言葉を続けた。

 

「奴は確かに腕は立つ。しかしそれだけだ──梟公は武力に加えて、戦略眼と政治センスに長け、何よりも人望と義心があった。奴は武力だけだ。到底、梟公を継げる器では」

「言葉には気をつけろ、ヤンシュフ」

 

 低い声が闇の中に響く。

 音もなく室内に現れた男は、『臆病な梟』の古参幹部最後の一人──シキョウだった。

 骨ばった体は三人の中で最も上背があり、深い皴の刻まれた顔面に光る鋭い眼は年齢をものともしない手強さを感じさせる。武道の練達者を思わせる、引き締まった風貌の男であった。

 

「ああ……シキョウ、来たのか」

「上に立つ存在を評してはならない。我らは一個の武器に過ぎないのだから」

 

 硬い言葉とは裏腹に、噛んで含めるような丁寧な語調でシキョウは話す。

 シキョウほど武張ってはいないものの、ブフニッツァも同じ気持ちだった。

 梟公を継げる器が無ければ認めない──その発言は、梟公の指名した後継者にも刃を向けかねないと誤解されうる。

 自分たち幹部は、ただ梟公を支えるだけだ。それが組織を守ることに繋がる。

 カガリを認めない理由は、奴が正当な手続きなしに梟公の座を狙っているという、その一点のみに求められるべきことである。

 その論理は当然ヤンシュフも理解している。単なる言葉の綾だろう──果たして、ヤンシュフはさしたる抗弁もなく頷いた。

 

「当然、わかってるさ。我々の気持ちは一つだ──カガリの専横を認めず、あくまで従来の秩序を堅守する。東軍も動き始めている以上、厳しい局面になるだろうが」

「仕方ない」

 

 ブフニッツァは頷く。シキョウも異論ないという表情で空いた席に座った。

 犯罪組織『臆病な梟』──その屋台骨を長年背負い続けてきた三人は、朧げな光を透かして互いの老いた顔を見据える。

 誰からともなく、卓上に手が伸びた。一様に右手を卓に置き、居住まいをただす。

 組織の誓い──今までの人生で何度となく繰り返した言葉を、三人は口にした。

 忠誠と献身を誓う、組織の鉄の掟を。

 

「ダイ・ナグラーダ・ダブロ──ダイ・ナカザニェ・プロホム」

 

 唱和が終わるとともに、三人はナイフとフォークを手に取る。

 静かな食事が始まった。

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