040:「たとえ有罪にできなくても」

 

 闇夜の街角。

 その片隅で、幾間は荒い呼吸を鎮めるために大きく息を吐いた。

 その視線の先──街灯の光の下に、縄で縛られた男が座り込んでいる。顔が腫れ上がり、精根尽き果てた様子でへたり込んでいた。

 

「これ以上抵抗するなら、さらに顔面の形が変わることになる。いい加減大人しくするんだな」

「クソ憲兵が……話を聞きやがれ」

 

 憎悪に満ちた声で男が吐き捨てる。幾間は困ったように呟いた。

 

「十分聞いた。その上での処置だ──こちらもそう言ったはずだ、何度もな。鰍、もう一度罪状の読み上げを頼む。そろそろ聞く耳を持ち始めているかもしれない」

 

 脇に立つ鰍が、幾間の言葉に小さく頷いた。

 

「違法薬物と、有効な許可状のない重火器の所持。どちらも明確に国法に違反する行為であり、それを減免する事由も認められません。ゆえに私たちには逮捕権があり、あなたたちはそれに抵抗したために束縛されました」

「完璧な回答だ、試験なら満点だろうな」男は痣だらけの顔に皮肉気な笑みを刻む。「てめえら、新任か? 机上のお勉強の他に、東部で憲兵をやるなら知っとかなきゃなんねえことがあんだよ」

「貴様のケツ持ちの話か? 心配してもらわなくても、東部に転属になってから嫌ってほど聞いたよ」

 

 幾間はこともなげに応答する。

 ──『臆病な梟』。

 東部に深く根差す巨大な犯罪組織。政界、財界、そしてこともあろうに憲兵組織にまで鉤爪を食い込ませている厄介な集団について、幾間は当然知っていた。

 検挙した犯罪者が、その組織の根回しで何度放免されたことか。

 

「わかってるなら、意味のねえ真似はやめやがれ。俺は梟公の忠実な臣下だ──その威光の前には、国法なんてクソの役にも立たねえんだよ」歪んだ優越感を瞳に滲ませ、男は笑い声をあげる。「形ばかりの取り調べを受けてすぐ釈放だ。てめえにゃ随分と痛めつけられたが、これからのことを思えばむしろ哀れみしか湧いてこねえな。俺たちにちょっかいを出す身の程知らずに昇進はねえ──その若さで一生窓際族が確定しちまってんだぜ、お前」

 

 幾間の内心が怒りで沸き立つ。

 目の前の男にではない──男が語った通りの現実に、歪んだ力が支配する東部社会に、義憤が止まらなかった。

 男の肩をつかみ、無理矢理に立たせる。激情によって発動した『鋼鉄狒』で硬化した指が肉に食い込み、呻き声を漏らす男──その両眼をほとんど睨むように見据えながら、幾間は低い声で言った。

 

「重ね重ねの心配、痛み入る──だが、俺は曲げないぜ。たとえ有罪にできなくても、貴様ら犯罪者を痛めつけ続けてやる。法による慈悲深い更生の機会を拒むお前らには、痛みで分からせる他ないからな」

 

 眼力に怯えたのか、男が顔色を失って黙り込む。

 幾間は肩から手を放し、腰縄を持って歩き出した。

 

「午前0時23分、被疑者確保──鰍、記録してくれ」

「また部長に怒られますね」

 

 鰍が呟くが、その言葉に批難するような響きはなかった。

 幾間は少し申し訳ない気持ちになり、彼女を見やる──自分の矜持はともかく、それによって彼女にも咎めがあるのは辛かった。

 

「今日の警邏、君は別の場所を回っていた。この逮捕に関係は──」

「お気遣いは無用ですよ、幾間さん」鰍はにっこりと笑う。「私もお叱りを受けます。気持ちは同じなので」

「……そうか。すまない、迷惑をかける」

「いえ」両手を振った鰍が、ふと心配そうな表情を浮かべる。「しかし……幾間さん、思いつめないでくださいね」

「ん?」

「この東部の状態は確かにおかしい……でも、それに怒り狂って正常な判断を失うことだけはないよう、気持ちを強く持ってください」

「……勿論だ。心配してくれてありがとう」

 

 答えながら、幾間は考え込んだ。

 鰍の目には──俺は、そう映っているのだろうか。

 確かに、自分は激しやすい性格だ。理性をしっかり保っている自覚はあるが、どこかでタガが外れてしまえば──やりすぎてしまう可能性は否定できない。一般人とは桁違いの武力を持つ蠱術師であればなおさら注意を要することだった。

 越えるべきでない一線は死守するつもりだ。しかし、この先に何があるかはわからない──極限状況において、俺は俺の理性を保てるのか?

 

「…………っ」

 

 頭を振って、幾間は恐ろしい想像を脳裏から追い出した。

 

 

 ほどなくして、三人は基地へ帰着した。

 またか、という顔の同僚に被疑者収監の手続きを任せた後、すぐにお呼びがかかる。

 憲兵部長──ドルクは苦り切った表情で幾間と鰍を自室に迎えた。

 

「幾間……何度言ったら理解する?」

「国法に従い、職責を全うしたまでです」

「確保したら俺に連絡し、指示を仰げ。いつもそう言っているよな?」

「そうした結果、何人の被疑者が大手を振って出て行ったか」

「私が信用ならんとでも言いたいのか!!」

 

 自分が信用に足るとでも言いたいのか、と幾間は心中で抗弁する。

 ドルク・ミットレー憲兵部長──彼は部下たちからひそかに「近眼で昇進した男」と呼ばれている。その由来は彼が現場の一隊長だったころ、街中でマフィアの大規模な抗争が起きている最中でそれを完全に無視し、馬車の駐車違反で一般市民をねちねちと責め立てていたという逸話に端を発する。すべてが終わった後、抗争に巻き込まれた一般人の縁者から責められた際に彼は臆面もなく「近眼のため気づけなかった」と言い放ったという。

 彼は『臆病な梟』の絡む事件には徹底して不介入を貫き、それによって今の地位を得た男である。幾間が彼を嫌い、また彼の方が幾間を厭うのも当然だった。

 

「被疑者が釈放されたのはとりもなおさず、お前の逮捕が早合点によるものだったということだ」ドルクは傲然として言う。「転属してまだ日も浅いお前は、この東部の状況を知らん。そんなお前を手助けしようという私の心を、お前は踏みにじるのか」

「そういった側面もありましょうが、現行犯の場合にまでいちいち確認をとる必要はなかろうと考えます」

「口答えは許さん! お前にどんな思惑があろうと、上官の命令無視は規則違反になると覚えておけ!」

「私は徹頭徹尾、国法に従って行動しております」幾間はきっぱりと答える。「国法に規定のない命令を無視した咎で、処罰が可能なのであればどうぞ」

「幾間ァ!」

「部長!」鰍が声を上げた。「申し訳ありません、今回のことは実は私の連絡ミスで──幾間さんは私を庇っておられるだけです! 決して意図的な命令無視では」

「信じられるか! 幾間、私は貴様の日ごろの態度が気に食わんのだ……貴様は周りとの協調も考えず、自分勝手に行動しているだけだ! そうだろう!」

 

 ヒステリックに喚き散らすドルクに、小さく舌打ちを漏らす。

 そんなに言ってほしければ、そうだと言ってやる──幾間が口を開きかけた時。

 

「適法な逮捕行為を責め立て、因縁をつける。それが上官の仕事かね?」

 

 冷静な声が背後から投げかけられた。

 幾間の奥に焦点をずらしたドルクが驚愕の表情を浮かべる。

 

「し、司令閣下っ! 休暇を取られていたはずでは……」

 

 幾間は振り返る。ドルクの言葉通り──この東部中央基地の基地司令官、ルミンスキーが立っていた。

 

「急報を受けたのだよ。『東軍総司令官、詠木大小閣下暗殺せらる。犯罪組織『臆病な梟』の犯行の疑いあり』──とね」

「なっ……総司令官殿が……あ、暗殺」

 

 あんぐりと口を開けたドルクの顔を目の端にとらえながら、幾間も同じように耳を疑っていた。

 東軍の上層部は『臆病な梟』と密接に繋がっているはず──なのにその関係性を壊すがごとき行動を?

 

「威信にかかわる問題だ──この報を受け、各基地は一斉に捜査を開始している。しかしここには『臆病な梟』に関わる資料は碌に残っていない」

「あ……その……」

 

 ドルクはばつの悪そうな表情を浮かべて口ごもった。『臆病な梟』に関連する人間は問答無用で釈放してきたこの男が原因であることは明らかだった。

 幾間は一歩進み出て、声をかける。

 

「司令閣下、『臆病な梟』の手先なら現在、一人勾留しております」

「ああ、記録を見た。君たち二人にはそういった事件の逮捕実績が多いようだな──奴らの足取りについて記録は残しているか?」

「はい、閣下。すべて」

 

 幾間に代わって、鰍が答えた。着任以来、幾間の独自捜査の記録はすべて彼女がつけていた。

 ルミンスキーは頷く。

 

「よろしい、君たち二人が先導せよ。『臆病な梟』への強制捜査を行うために直ちに準備を開始するのだ──これは基地としての方針だ。異存はないね?」

 

 有無を言わさぬ語調に、ドルクは恐縮しきって首をがくがくと振った。

 幾間と鰍は一礼し、部長室を出る。

 司令とすれ違う刹那──彼の瞳に幾間はわずかに引っ掛かりを感じた。

 冷静さの中に、どこか鋭いものを感じる瞳。普段の物静かな司令には感じなかった迫力──その代わりに、どこか別の場所で見たことがあるような。

 しかしその微小な違和感は、横溢するエネルギーに押し流された。

 東部に巣食う犯罪組織を一網打尽にする。そうでなくてはならない。

 それは幾間の抱く信念に合致するばかりでなく──東部に入ってからさっぱり消息がつかめないあの女の尻尾をつかむチャンスにも思えた。

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