036:「朝日みたいに明るく笑うの」


「『カガリ』っていうの。その男」

「カガリ……」

 

 フウは相槌を打ちながら、背後にある錆の浮いたパイプに背を預けた。

 壁一面が大小様々のパイプに埋め尽くされた部屋である。たった一本の蛍光灯の頼りない光が照らす光景は、打ち捨てられた廃ビルか何かのボイラー室を思わせた。

 部屋の隅には、なみなみと水で満たされたバケツが置かれている。つい先ほど、フウはあの中を通ってこの部屋に出たのだ──しかし、あのバケツにはちゃんと底があり、どこへも通じてなどいない。摩訶不思議な現象は、同行者の少女が引き起こしたものなのだろう。今、フウの前で喋っているこの少女が。

 

「そう、カガリ」

 

 それがたった一つの情報なの、と、幼い声に力がこもる。

 

「……ねえ、ウトラちゃん」

「なあに?」

 

 ウトラ。

 この部屋に辿り着いた直後、びしょ濡れのフウにタオルを渡しながら少女はそう名乗った。

 彼女は、フウの店に突然現れた『臆病な梟』の構成員の仲間であり、そしてフウを拉致した張本人でもある。しかしながら彼女はフウを脅すでも拘束するでもなく、普通に自己紹介をし──そして、ただ話をしていた。そのちぐはぐさに、思わず毒気を抜かれてしまう。

 

「とりあえず、話の前に君も体を拭いたらどうかな? そのままだと体が冷える」

「え、ああそうだね。お兄ちゃん頭いいね!」

 

 少女は健康的な褐色の顔一杯に笑みを浮かべ、フウの使い終わったタオルを受け取った。

 腕にタオルを巻きつけるようにしてから、それで体を拭う。奇妙なやり方だった。

 

「……それで、ウトラちゃんはそのカガリって人が嫌いなんだね?」

「うんっ。嫌なやつなんだよ、そいつ。キーラちゃんもそう言ってるし」

 

 キーラ──とは、あの礼儀正しい『臆病の梟』に属する少女のことか。

 ウトラとキーラ──二人は同じように『臆病な梟』の一員なのだろうが、ウトラの口ぶりは仕事仲間というよりは友達か、あるいは年の近い姉に対するもののように思えた。

 

「そいつはね、強いからって自分勝手してるんだよ。部下を使って、縄張りのカタギさん達から必要以上に搾り取ったり、貧乏人相手に麻薬を売ったり。ぜーんぶ、『臆病な梟』の掟破り」

「そりゃあ……酷いね」

「でしょ!? それでね、キーラちゃんはカガリを除名しようとしてるんだけど……うまく行ってないの」

「どうして?」

「カガリのことが、わからないから」

 

 ウトラは悔しそうに目を伏せる。

 

「わからない?」

「ただ強いことしかわからない。どんな能力を持っているのか、カガリにはどんな能力が有効なのか──まったくわからない。カガリは自分の情報を誰にも漏らさないやつだし。何だっけ、ひみつしゅ、しゅ」

「秘密主義?」

「それ」タオルでぐるぐる巻きになった右腕でフウを指して、ウトラは続ける。「能力どころか、何もかもわからないの。いつも暗闇の中にいるし、姿を現す時も大きなマントと変な覆面でぜんぶ覆ってる。顔どころか肌の色すらわからない……カガリって名前もほんとうの名前じゃないだろうし」

 

 そこで少し考えるようなそぶりを見せたウトラは、小さく頷いて付け足す。

 

「っていうか、ほんとうの名前なんて、ないかも」

「ない?」

幽霊児ゴースト、ってこと。『臆病な梟』には多いから」

幽霊児ゴースト……」

 

 その言葉の意味を、フウは知っていた。

 幽霊児──そこにいるにも関わらず、公的には存在しないものとされている人間。出生の届け出をできない闇社会の人間が生んだ子供や、家格の高い家で「相応しくない子供」──つまり障害を持っていたり、極端に使えない能力を生まれつき顕現させている子供などが捨てられたりして幽霊児となる。戸籍がなく身の証を立てられないため、福祉の手からも零れ落ち、真っ当な職に就くこともできない子供たち──彼らの取り得る道は、極端に少ない。すなわち、食い物にされるか、闇の世界で生きるか。その二つに一つである。

 

「やっぱり……そういう子供たちは、『臆病の梟』みたいな所でないと生きていけないんだね」

「まあね。私もその一人」

「え……」

 

 ウトラは右手を乱暴に振って、巻き付いていたタオルを落とす。

 フウに向かって差し伸べられたその手は、重力に従ってだらりと垂れ下がっていた。

 

「生まれつき、両手の手首から先が動かないの。パパとママは──って言っても、顔も知らないんだけど──これが嫌だったから、私を捨てたのかな」

「……ウトラちゃん」

「やだなあ、そんな顔しないでよ、お兄ちゃん! 私にはキーラちゃんがいるから大丈夫だよ」ウトラはフウの顔を見て、ぱっと笑顔に戻る。「ウトラって名前もね、キーラちゃんがつけてくれたの。キーラちゃんのご先祖様が住んでた国の言葉で、『朝』って意味なんだって──だから私は、いつでも朝日みたいに明るく笑うの」

 

 きゃっきゃっきゃ、とウトラは特徴的な笑い声を上げる。

 その姿は──どこか無理をしているように見えた。

 ぽたり、と彼女の髪を伝って雫が床に落ちる。

 その一滴を彼女の心の中を流れる涙と重ねてしまうのは、自分の考え過ぎだろうか──トフウは思った。

 

「……おいで。ちゃんと拭けてないよ」

 

 床に落ちたタオルを拾い上げ、フウはウトラの手を引いて床に座らせる。

 彼女の話は要領を得ない部分もあったが──足りない個所を想像で補えば、大体のことは分かった気がする。要するに、ウトラと彼女の仲間であるキーラは現在、『臆病な梟』の内部抗争の渦中にいるのだろう──カガリという男の暴走を止めるため、キーラは裏の世界で名うての存在だったらしいマキナを担ぎ出そうとしている。その作戦の一環として、自分は今ここにいる。きっと、そういうことなのだろう。

 とは言え──能力もないフウに何ができるというわけでもない。マキナのことは気がかりだが、今はとりあえず様子を見ているだけだ。

 それ以外にできることと言えば──このままだと風邪を引きかねない少女の髪を拭ってやることくらいだろう。

 

「優しいね、お兄ちゃん」

 

 わしわしと頭を拭かれながら、俯いたままのウトラは小さな声でそう言った。

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