035:「二度は乞わぬ」

 

 詠木大小は、執務室で休む間もなく書類と格闘している。朝からずっとだった。

 半開きの口から、ため息がこぼれ出る。連日の激務の疲れもあったが、この気分はそれだけが原因ではなかった。

 遠近──。

 ついさっき予約アポもなしに現れた闖入者──不肖の弟のやにさがった顔が脳裏にちらつき、大小はもう一度深い吐息を漏らす。

 有能な者は功をひけらかすことなく粛々と邁進し、無能な者は声高に叫ぶ。どういうわけか、世の理はそうなっている。

 奴に何ができるつもりなのか──幼い頃から何をやらせても半端だった弟の思考回路など、大小には理解しようもなかった。ただ無様に失敗を繰り返すだけならまだ構わないが、こちらの仕事にまで影響してくるとしたら無視はできなかった。

 まあ、すぐに動くほどのことではない──ある程度時限を切って、何も成果が出ていないということで奴の部隊おもちゃを取り上げておいた方が無難だろうな。

 そこまで考えた時。

 窓を通して部屋中に注いでいた陽の光が、一瞬で途切れた。

 

「…………!?」

 

 日が翳った、という次元ではない。一瞬にして、執務室は闇に支配された。

 明らかな異常事態──その原因として思い当たる最も妥当なものを暗闇の中に思い浮かべ、大小はその名を呼んだ。

 

「梟公……!? あなたなのですか!?」

 

「梟公に非ず」

 

 低くひび割れた、猛獣の唸り声のような獰猛な声音──しかし、それに反して実に繊細で、典雅とすら言える発音。

 野生と知性を兼ね備えた声が、大小の向かい側の闇から響いた。

 

「東公の嫡男に問う──我とよしみを通じたいとの意は、偽りであったか?」

「……お前か」

 

 徐々に闇に慣れた眼が、暗黒の中におぼろげな輪郭を認める。

 岩のようにごつごつとした巨体が、蹲るように床に座り込んでいた。

 

「我が与えたもの……『臆病な梟』の本拠の情報を秘匿せしは、いかなる目論見に基づくはかりごとなりや」

 

 古風な言葉を話すその男は、かつて『臆病な梟』の上層部にいた男である。

 いや、いまもってその立場は健在なのだが──かつていた、という表現は、この男の心がすでに『臆病な梟』から離れていることを意味している。

 この男は造反を企み、東軍と結託しようと情報を流してきていた。

 

「私は──お前に付くなどとは一言も言っていない。お前の部下が勝手に寄越した情報だ」

「この期に及び、旗色を晦ますか」闇の声は、どこか嘆じるようでもあった。「梟公と我を天秤にかけるその行為に、相応の覚悟は伴っておろうか」

「覚悟とは?」

「梟公斃れし後に禍根を残す行いなり」

「よく言う」

 

 ふん、と大小は鼻で笑う。

 僅かな沈黙の後、まあ良い──と声は続いた。

 

来方こしかたより学ぶことはあっても、囚われることはなし。過ぎたことは不問に付す──其方、これより我に従い、梟公を討つ気はありや」

「…………」

 

 こいつは手を出せない。大小はそう確信した。

 この男はあくまで自分に協力を乞う立場──東部を裏から支配する『臆病な梟』と繋がっている自分に、堂々と牙を向けることはできない。それは造反を白日の下に晒す行為であり、これまでの工作をすべて無意味にする。

 

「たかだか部下の一人に過ぎない男が梟公に弓を引くなど、思い上がりもいいところだ──成功するはずがない、目を覚ませ」

「左様か」

 

 あくまでも冷静に、声は返した。

 闇の中で、影が動く。

 

「一度は歩み寄ろう。梟の寛容さゆえ」

 

 こいつは私を殺せない。そのはずだ。

 私が一声上げれば部下が来る。奴は袋の鼠だ。そんな愚は犯さない──そのはずだ。

 大小は信奉する経典の文句のように、それを脳内で繰り返す。

 しかし、事実は違った。

 影は膨らみ、

 ゆっくりと立ち上がったその影が、僅かにぶれた。

 なにを──

 

 するつもりだ、と続くはずだった思考はそこで寸断された。

 その理由は明らかだった。思考を司る脳が爆散すれば、そこに電気信号は通わない。

 大小を大小として周囲に認識させ得る一番の象徴アイコン──彼の顔は、首から上ごと弾けて無くなった。

 放射状に飛び散った脳漿が、一切のむらなく塗られた指令室の壁や品の良い調度品を遠慮なく汚す。その災厄から逃れたのは──奇妙にも彼の真正面に立つ、闇を纏った大男だけだった。

 その巨体に一点の染みもない男は、落ち着き払った態度を崩さないままに無惨な死体を睥睨する。

 

「しかし、二度は乞わぬ。梟の誇り高さゆえ」

 

 もはや誰にも聞かれることのないその声は、しかし今までと全く変わらず闇の中に響いた。

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