第三章──唐揚げと東軍と死にたがりの鼬

027:「そうこなくっちゃァな」

 

 怪しい星が、瞬いている。

 フウ・レイリーはそう思いながら、ぼんやりと夜空を見上げていた。

 彼は一軒のあばら家の軒先で、酒樽に腰かけている。寄りかかっている柱には真新しい看板がかかっていた。

 ──『食事・酒 天光軒』。その店は、今日まで5年以上の厳しい肉体労働を続けてきたフウの努力がそのまま形になったものだった。

 人にこき使われる日々は今日で終わり──明日からは、経営者としての人生が始まる。フウにとっては心躍る夜のはずだったが、今夜の星空はそれに相応しくない不気味な雰囲気をもっていた。

 まあ、行き先に不安を抱えていない人などいない。フウは自分に言い聞かせるようにそう考える。昨今特に治安が悪化しているこの東部では尚更のことだ──それでもやると決めた以上、迷うべきではない。

 そうわかっていても、フウは何かを暗示するようなこの星空から目を放すことが出来ずにいた。

 

「……ん?」

 

 不意に、空の片隅に光の軌跡が映る。

 尾を引いて飛んだ流れ星──それが落ちた方向を見て、フウは声を漏らす。

 店が面する道路の先に、よろよろと歩く人影が見えた。

 

 それは──小柄な体に不釣り合いに大きなトレンチコートを羽織った、歳の頃は十八九といったところの少女だった。

 目を見張るような艶やかな黒髪の、前髪のひと房だけが銀色に輝いている。まるでついさっき見た光景のよう──夜空を切り裂く流星のようだった。

 化粧っ気がないが、それでも人の目に留まるような瑞々しい美しさをたたえた顔は、苦痛に歪んでいる。右肩に背負った荷物の重みに耐えかねるように、華奢な体全体がふらふらと傾いでいた。

 

「お姉さん──具合でも悪い?」

 

 のろのろと道を進む少女に、フウは思わず声を掛けた。

 少女はゆっくりと首を巡らせ、こちらを見る。フウの言葉に緊張の糸が切れたように、どさりと崩れ落ちた。

 慌てて駆け寄ったフウに、少女は吐息のような声で言う。

 

「酒場……か。こりゃ、アンタの店か」

「え? そ、そうだけど」

「頼むよ……何か、食わせてくんねェか」粗雑な口調で少女は縋った。「腹が減って減って死にそうなんだ」

 

 

 

「うっ……うンッめェェェーーーーーーっ!!!」

 

 少女は全力で吼えながら、これまた全力で卓上の料理を口に詰め込んでいた。

 あまりに必死な様子に、思わずフウは苦笑いする。

 

「そりゃ良かった。ありがと」

「いやァ、コイツはマジに絶品だよ! どれも美味ェが、とりわけこの唐揚げっ」

 

 言いながら、少女は皿に盛られた唐揚げに箸を突き刺す。

 一口に頬張って、恍惚の表情を浮かべながら咀嚼し、飲み下す──惚れ惚れするような食べっぷりだった。

 

「こりゃ最高だ──『空腹は最高のスパイス』なんて言葉があるが、コイツはそんなもんとは関係なしに美味いと断言できらァな。スパイスなんてもんじゃねェ、まるっきり麻薬だ麻薬」

 

 男のような──それも大分ガラの悪い男のような口調は彼女の容姿とはアンバランスで、しかしそれが奇妙な魅力を感じさせた。

 

「そう言ってもらえると嬉しいよ。一応、看板メニューにする予定だから」

「予定? まだ出してねェのか、ここまでのモンを」

「って言うか──開店すら、まだしてないんだ。明日、オープンする予定だったんだよ」

「明日オープン?」

 

 キョトンとした表情で、少女は店内を見回す。

 フウは笑った。

 

「言いたいことは分かるよ。とても新規開店には見えないボロさだってんだろ?」

 

 そう思われても無理はなかった。

 築四十年。それも念入りなメンテナンスをしてきたとは言い難い店内は、相応に古びていた。開店に際してせめて最低限のリフォームくらいはしたかったのだが、届け出の手数料やら事業税やらが嵩み、内装にまで手が回っていないのが実情である。

 

「格安で買ったんだ、この物件。前も酒場でさ──元の店主の爺さんは、ここ最近の治安の悪化に見切りをつけて店を畳んだってわけ。長年溜め込んだ小金で、南部の一等地に住むんだってさ」

「なるほど。客の第一号がタダ喰いとはゲンが悪いこった──兄さんには気の毒しちまったかな」

「別に気にしないよ。逆にそれだけ美味しそうに食べてもらって、自信がついた」

「ははッ」

 

 少女は屈託なく笑う。凛とした造作だが、笑うと親しみの持てる顔だった。

 

「お姉さんは旅の途中か何か? 仕事は?」

「旅、か──まあ、良く言えばそんなところかねェ。旅から旅の、流しの音楽家さ」

「音楽家?」

 

 食べる手を止めないまま、少女は傍らの荷物を指差す。良く見れば、それは古ぼけた楽器ケースのようだった。

 

「まあ、実入りのねェ仕事だよ。行き倒れるのもしょっちゅうさ──心底から音楽が好きじゃなけりゃ、とてもやってられねェ」

「へえ──そういう仕事は、今のここじゃ特に厳しいかもね」

「ああ、どこも荒んでるからな。音楽なんかに金を払う心の余裕がある御仁は、そうそういやしねェ」

 

 やはりそうか、とフウは思う。

 心に余裕がない──それはフウの身の回りだけのことではない。だからといって何という事もないのだが、フウは卑近な安心感を覚えた。

 料理をきれいに平らげた少女は、勢い良く両手を合わせた。

 

「いやァ、ご馳走さん──おかげで人心地ついた。そこで、だ」少女は食卓に手を付き、身を乗り出す。「何から何まで虫のいい話だが、あたしをここで雇っちゃもらえねェか?」

「え?」

「酒場っちゃ、陽気な音楽が付きモンだろうよ。賄いの食事さえ保証してもらえりゃ、給料は雀の涙で構わねェ──どうだい?」

「いやいやいや、急過ぎるよ」

「楽奏の他に、皿洗いでもウエイトレスの真似事でもなんでもやるよ。見たとこ手狭な店だが、一人で切り盛りするのは存外大変なもんだぜ」

「うーん……でもなあ、まだお客さんが来るかどうかも分からないし」

「この腕前だ、来るに決まってらァ」乱暴な口調で言い切り、少女は勢いよく胸を叩いた。「客第一号のあたしが請け負う」

 

 自然と、笑みがこぼれた。

 威勢が良く、快活な態度──それはフウにはないもので、だからこそ奇妙な心地よさがあった。

 

「じゃあ──試しに一曲、ここで頼むよ。それで決める」

「そうこなくっちゃァな!」

 

 我が意を得たりとばかりに頷いて、少女は楽器ケースの中身を取り出す。

 見たことのない弦楽器だった──形はバンジョーに似ているが丈がより長く、弦の数も多い。

 

「特にリクエストがなけりゃ、即興でいくぜ──既製品の曲は好きじゃねェんでな」

 

 フウが頷くと、少女は弦を爪弾き始める。

 

 それは──ややスローテンポだが、同時に踊り出したくなるような。

 聴いているだけで楽しくなるような。

 それでいてやかましくない、心地よい旋律だった。

 古びた店内がまるで上等の老舗に思えてくるような錯覚を覚え、フウは内心で頷く。

 酒場には音楽が付きもの。まさにそうだ。

 今、まさにフウは確信している──彼女の音楽なしに、この店はあり得ない。

 

 数分の曲が終わり、楽器から顔を上げた少女に、フウは右手を差し出した。

 少女は会心の笑みを浮かべ、片眼を瞑る。

 

「合格かい? ボス」

「ボスなんて呼び方は止してくれよ、齢もそう違わないだろ。僕はフウ。フウ・レイリーだ──これからよろしく」

或塔潤蒔菜あるとうるまきな。マキナって呼んでくれ」

 

 少女──マキナは、挑戦的な微笑と共にそう答えた。

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