026:「君との思い出を胸に仕舞って」

 

 夜明け前──世界が最も静かになる時間。

 その静寂の中で仕事を始めるのが、黒沢牢主の流儀だった。

 自分は堅気の人間ではない──表の世界で生きる人々の営みに、社会を支え国を動かす生産活動に何一つ寄与していない。ならばせめて、彼らに迷惑だけは掛けずに日々の仕事を遂行するべきだ。

 影のように現れ、影のように消える。

 それが昔から現在まで変わることのない、彼の職業倫理である。

 

 

 

 黒沢は、目的地に至った。

 すっかり道順を覚えてしまった──と、自嘲気味に胸中で独語する。

 南部の中心地から少し外れた町の、さらにやや郊外に立つ古ぼけたアパート──ここに、黒沢の標的が住んでいる。

 彼女こそは、黒沢の殺し屋としてのキャリアの前に現在立ちはだかる壁であった。

 自らの全力をもってしても未だ殺せない女、ミズハ。

 

 ──今日こそは。

 

 そう決意してノブを回す。

 いつも通り抵抗なく開いた扉──しかしその先に広がった光景は、いつも通りではなかった。

 

「ん……?」

 

 外に面する一間はダイニング──その奥には寝室と、バスと一体化したレストルームへ続く二つの扉。

 西に面した窓と、磨き上げられた床。

 いつも通りの見慣れた間取り。ここが何度となく通った場所であることは確かだった。

 しかし──そこには、今まで見ていたものはそれだけしか残っていなかった。

 テーブルも。

 椅子も。

 冷蔵庫もテレビも年代物のヒーターも──壁に掛けられていた訳の分からない抽象画も、何一つなくなっている。その代わりに、寒々しい空虚だけが部屋に満ちていた。

 まるで。

 

「……引っ越しでも、したかのようだ」

 

 そう口に出した時、黒沢は背後に人の気配を感じた。

 油断なく、素早く振り返る──その勢いに少し驚いた様子の、禿げた中年男が立っていた。

 

「あんた、この部屋に用事かい?」

「あ──ええ、そうですが」

 

 堅気──そう判断し、黒沢は言葉少なに応じる。

 男は得心したように頷いて続けた。

 

「ミズハちゃんに会いに来たんだな。ってことは、アンタが黒沢って人か?」

「……? はい」

 

 どうして自分の名を知っているのか。

 疑わし気に見返す黒沢に、男はこともなげに言った。

 

「俺はここの大家なんだけどさ。ミズハちゃんなら引っ越したよ」

「引っ越した……?」

「ああ。急なことだったが、何か重大なことでも起きたみたいでな──身の回りの荷物だけまとめて、俺に申し出てきたその日のうちにいなくなっちまったよ。まあ、貰ったばっかりのひと月分の家賃もそのままでいいって言うし、家財道具も売れるものは迷惑料代わりに売ってもらって構わないって言うから、ひとまずその通りにしたわけだ」

 

 説明する男の顔を見ながら、黒沢は腑に落ちない思いを抱えていた。

 この男の顔に嘘はない──謀略に関わっているわけではなさそうだ。しかし、ならばなぜそんなに急な転居をしなければならなかった?

 何人もの殺し屋に狙われ、それでものんびり暮らしていたミズハがそのことに今更危機感を抱くはずもない。何か別の事情があるのか。

 

「納得いかない、って顔だな。俺もそうだよ」

 

 男は片眼を瞑ってそう言うと、ズボンのポケットから封筒を差し出した。

 

「あんたに──黒沢さん宛に、彼女から手紙を預かってる。まあ、あんたとあの娘がどういう関係かは知らないし、詮索する気もないが、渡しておくよ」

「……どうも」

 

 男は含みのある言い方を残し、階段を下りて行った。

 さしずめ、黒沢を問題のある恋人とでも思ったのだろうか──ミズハは恋人の不品行に耐え兼ね、訣別の手紙を残して夜逃げした。まあ、状況から推察するに無理のある回答とまでは言えない。

 黒沢は黙って封筒の中身を改める。素っ気ない、一枚の白い便箋が入っていた。

 

 

「──黒沢へ。

 

 君がこの手紙を読んでいる時、私はもうそこにはいない。

 少しばかり用事が出来て、根城を代える必要性に駆られたためだ。

 なにしろ急なことで、君に別れの挨拶をする時間の余裕がなかった。それが心残りなので、こうして手紙をしたためておくことにする。

 

 君とは少なからぬ思い出がある。そのほとんどが、君が私に向けて発砲したという思い出だ。いささか情緒に欠ける話だとも思うが、どんなものであれ思い出は思い出として遠き日の中で色褪せぬ輝きを放つものだと、私は信じている。

 

 私は遠くに行く。君との思い出を胸に仕舞って。

 どうか、私の目玉焼きの味を恋しがって泣かないでおくれ。

 縁あれば、また会う日もあるだろうから。

 

                     君の友、ミズハ」

 

 

「…………」

 

 黒沢の息が荒くなる。

 便箋を持つ手が震え、力を込められた指がぐしゃりと紙にめり込んだ。

 

「なんっ……だ、これはああああああああああああああああ!!!」

 

 土石流のような咆哮を上げ、柄にもなく黒沢は激高する。

 感情のままに、これ以上ないほど馬鹿にした文章の記された便箋を引き裂いた。

 何だこれは。何のつもりだ。

 最初から最後まで一行たりとも一文たりとも、意味がわかるものが一つもない。いや、最初から意味などない──無意味で理解不能な行動。たったひとつわかるのは、ミズハが面白がって「惜別の手紙ごっこ」で遊んでいるという事だけだ。仮にも彼女の命を狙う殺し屋を相手に。

 この仕事について以来、一度も受けたことのないほどの屈辱だった。

 プロとしてのプライドに汚物を擦り付けられる感触を、黒沢は確かに感じた。

 

「馬鹿にしやがってぇぇぇ!!」

 

 最も深い闇の中、何の物音も発さずに標的に近づき一撃で仕留める──その手腕と実績から「静寂(サイレンス)」と敬意をもって呼ばれる男とはとても思えない態度で、革靴をがんがんと床に打ち付けながら黒沢は大股で歩き出す。

 部屋の窓の一つからさっきの大家が顔をのぞかせていた。この姿を見ておそらく彼の疑念は確信に変わったに違いないが、黒沢にはそんなことを気にしている余裕はなかった。

 黒沢の身の内には、ただ怒りだけが燃えていた。

 

 ミズハ──プロの仕事を嘲笑う小娘。

 地の果てまで追いかけてでも、奴を仕留める。

 黒沢は自らの請け負った仕事の遂行を、改めて誓った。

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