018:「新たな王となる」
「お呼び立てし、申し訳ない──東公」
いえいえ、と愛想よく答えながら、詠木銅冠(よみきどうかん)は眼前の男の盃に酒を注いだ。
重々しい声を発したその男は、大きな盃の上に静かに波打つ水面をじっと見つめている。
泰然、という言葉が似合う男だった──筋肉に包まれた巨体と厳しく引き締められた面相、そして左目を塞ぐ眼帯だけを見れば猛々しい印象を持つが、それらの要素を包み込むように全身から落ち着きと思慮深さを感じさせた。
それは彼の60余年の生涯のうち、戦場よりも執政の場にいた時間が長かったせいなのだろうか。それともこの国有数の名家に生まれ育ったことにより身に着けた気品の為せる業か──おそらく、その両方であろう。
王都を有する大霊山南部の、行政の頂点に君臨する男──南公、伯羅天眼(はくらてんがん)は盃を一息に干し、詠木から受け取った徳利を傾ける。
満たされた盃を捧げ持つように掲げてから、詠木はそれを伯羅とは対照的にちろりと舐めた。
酒は得意ではない──奥の間で演奏されている上品な弦楽器の音が心地よく響き、胸を突くような酒の強い香りを幾分か和らげてくれたような気がした。
「良い雰囲気の店ですな」
「馴染みでな。賓客を遇する際には、良く使う」
広々とした室内の調和を保つ調度品に、見慣れた風情でちらりと視線をやってから伯羅は続ける。
「ところで、東部の様子はいかがか」
「変わりなく、と申し上げたいところですが──やはり、波立っております」
あくまで丁寧に詠木は答える。
伯羅はさもありなん、と言いたげに頷いた。
「無理もない──陛下の崩御以来、国全体が動揺しておる。こういった時にこそ、不逞の輩がのさばらぬようしっかりと施政を行わねばならんのだ。次代の王がお起ちあそばされるまで、我らが目を光らせねば」
改めて言われるほどのことではない、と内心で思いながら、詠木はさも感じ入ったかのように大きく頷いて見せる。
「まこと、仰る通りでございます。私も常にそのことに思いをいたし、領内の治安維持と国防に気を配っておりますれば」
「日本との境界を守る東公には苦労を掛ける」伯羅は瞬きをせず、詠木の顔をじっと見つめた。「このところ、国境付近に出没する賊が増えたと聞く。外患を呼び込まぬよう、今後も励んで頂きたい」
「勿論でございます。賊討伐には私の息子達が当たっておりますから、ご心配には及びません」
答えながら、詠木は背筋にうそ寒いものを感じていた。
今日、わざわざ南部に呼ばれたことの意味──伯羅は詠木を怪しみ、釘を刺そうとしているのではないか。
この乱世に、良からぬ夢想を思い描くな──と。
「心配と言えば」詠木は話題を変えようと試みた。「西公の施政は滞りなく進んでいるのでしょうか」
「今のところ、目立った噂は聞かぬ。不満が出るとすればこれからであろうな」
西公──オルリアン・アゼルバイツが病死し、彼の息子がその地位を継いだのは二月前のことである。
西公は一年以上前から病みついていたこともあり、前々から代替わりの準備を進めていた。今のところ西部が問題なく収まっているのはそのお陰なのだろう──その意味では、猶予期間を取ることのできた西公は国王よりいくらか幸運だったと言える。
とは言え、当然ながら懸念はある。大霊山の中で最も商業的に発展している西部が混乱するとすれば、それは国全体の景気と活気に影響するからだった。
「東公の仰る意味は理解できる。就任していくらも経たぬ若者に、この難局はいささか荷が重かろう──私も同意見だ。であるから、近く四公の会談の場を設け、相互協力の意思を今一度固めておきたいと思う。東公の意見はいかがか」
「是非、行いましょう」伯羅の目的を知って内心ほっとしながら、詠木は賛成する。「そういった意思を公に見せることも、民を安んずる助けになりましょうし」
「うむ」
満足げに頷く伯羅に酒を勧めながら、詠木は内心でほくそ笑む。
四公会談──願ってもない機会だ。
前代西公のオルリアンは豪商の身から政界に転じた男で、数々の修羅場を才覚を駆使して渡ってきた海千山千の剛の者だった。腕一つでのし上がった彼の築いた地位をぽんと引き継いだだけの若造に、同じだけの器量は望むべくもない──西公の代替わりに付け込んで自らの勢力を強化したいと考える詠木にとって、接触が増えることは歓迎すべき事態だった。
まずは新西公を見定め、付け入る隙を見つける。
うまくすれば西部の利を食い荒らし、力を蓄えることができるだろう。
その力が積み重なり──稀代の名臣と称えられる眼前の男すら超えた時、詠木は新たな王となる。
欲に塗れたにやつきを腹中に隠し、詠木は再び盃を舐めた。
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