015:「防御力はなくとも」


「初めまして──私はここの店主の紗代子。皆は私を『ママ』とか『さよママ』って呼ぶわ。お嬢さん、お名前は?」

 

 彼女がおしぼりを脇にどけて、カウンターに手を置くミズハに嫣然と微笑んだ。

 さよママという語感が気に入ったミズハも、にこりと微笑み返す。

 

「ミズハ。クグルノとは、まあ、仮の仕事仲間といったような関係です」

「ミズハちゃん──涼しげでよいお名前。みいちゃんね」ミズハの名もすぐさま自分流に変えてしまった紗代子は楽し気に語り掛けた。「お二人さん、ご注文は?」

「俺はエール。お前はどうする?」

「酒は今は良い──コーヒーを貰おうかな。あと、この店は食事も出すかな?」

「簡単なものなら、あるわ」

「なら適当に何か頼むよ。簡単で良いが、なるべくお腹にたまるものを」

「腹ぺこみいちゃんね」

 

 ころころと笑って、紗代子は壁の食器棚に向かう。

 彼女はエールとコーヒーを手早く二人に出すと、身に着けた純白のエプロンの前掛けで手を拭いながら奥の厨房らしき部屋に消えた。カウンター客のほぼ全員が、名残惜しそうに紗代子の後姿を見送る。

 なんとなく同じようにしてから、ミズハは傍らのクグルノを振り返る。

 

「ここは君のようなならず者たちの憩いの場なのか?」

「……まあ、そう思って通ってる奴が多い」

「ふむ。裏の世界に入る人間は概して人格形成の際に何らかの瑕疵があるケースが多く、更にそのうちの何割かは幼少期の家庭環境に問題があったらしい。だとすればここの『ママ』は、それらの人を惹き付ける理想の母親像として機能しているのかもしれないね」

「ずけずけと分析すんな。遠慮と憚りってものを覚えねえと、お前刺されんぞ」

「忠告ありがとう」

「ヘイ」

「?」

 

 クグルノとは逆サイドから飛んできた声に、ミズハは振り返る。

 ミズハの隣に、黒のロングコートに身を包んだ若い男が座っていた。

 無造作な形に整えられた長めの銀髪に、やや色の薄いサングラス。整った顔とすらりとした体躯も相まって、気障な印象を与える男だった。

 男はブランデーグラスを傾けながら、見た目通りに気取った様子でミズハに流し目を向けている。

 

「お嬢さん──クグルノのパートナーだと聞いたが、長く付き合うのは考えた方が良いと思うぜ。こいつは人を助けたりしない──いつか、裏切られるよ」

 

 掠れるような低音を印象的に区切って、男はウインクする。

 ミズハはそれを受け流し、再びクグルノを見やった。

 

「君の知り合いかい?」

「さあな、一度も見た事ねえ」

「さらっとそんなことを言うな──傷付くじゃあないか。お嬢さん──ミズハちゃんだったね? 今の答え一つとっても分かるだろう、俺は彼ともう数年来の付き合いなのにこの薄情さ。こいつはこういう男なんだよ、わかるね?」

 

 幾分か早口になって男はミズハを諭す。

 サングラスの奥の瞳が若干潤んでいた。メンタルはかなり弱いらしい。

 

「まあ、意地の悪さはなんとなく察したけれども」少しだけ労わりながらミズハは男に答える。「私には彼がそこまでの冷血漢には思えないんだよ。何より、彼の能力が私には必要なんだ」

「そうか──まあ、店でたまたま隣りあった男の言葉だ、参考程度に聞いてくれれば良いぜ。ただ、聞き置くだけだとしても、忘れることだけはしちゃ駄目だ」

「ありがとう。覚えておくことにする」

「素直だね。君のような可愛い娘に頼られるなんて、クグルノが羨ましい限りだぜ」

 

 男はくるりとグラスを回す。氷が澄んだ音を立てた。

 

「そう、名乗るのを忘れていたね──俺はユーク。何かあったら俺のもとにおいで、助けてあげるから」

 

 甘い低音と共に、ユークと名乗った男はじっとミズハを見つめる。

 クグルノがうんざりしたように声を掛けた。

 

「そうかそうか、そんじゃ早速頼みたいことがあんだわ」

「お前に言ったわけではないんだが」

「うるせえな、ミズハの頼みだっつうの。言われなくても俺はお前に頼ることなんて一生涯ないから安心しろ。お前に引っ張ってもらわなきゃ崖から落ちるとしたら、俺は迷わず手を放すからよ──お前に助けられたという汚点を抱えて生きるより来世に懸けるわ」

「何もそこまで言わなくともいいじゃないか……」

 

 またぞろ傷付いているユークの肩にミズハは優しく手を置く。

 

「君はかなりナイーブなんだね。この店に通うのもなんとなく頷ける気がする」

「歯に衣着せることを覚えろ。慰めるようでいて『お前は甘ったれのマザコン糞野郎だ』っつってんだぞお前は」クグルノが若干気の毒そうに言う。「あと、そいつは客じゃねえぞ」

「うん?」

「そいつはな、この店の従業員だ。ここには裏世界の連中が集まる──そいつらから漏れた噂話なんかはこいつに訊くのが一番だ」

「なるほど。しかし従業員が客に混じって悠然と酒を嗜んでいて良いのかい?」

「──だからこそ、君はこうして俺に出会えたんだぜ?」

 

 いつの間にか復活していたユークが再び流し目をくれながら呟く。

 防御力はなくとも回復力があるんだな、とミズハは思った。

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