008:「きっと後悔するぜ」

 

「殺す……だと」

 

 不穏な言葉に、鼓動が高鳴る。

 幾間は怪しい笑みを浮かべるクグルノを睨みつけた。

 

「ただの提案さ。お前、あの女を憎んでんだろ? 牢獄送りになっちまったら手を出す術はなくなるぜ──殺ろうと思えば殺れる、憲兵隊詰所の拘置所にいる今がチャンスだろ」

「…………」

「何を躊躇してる? 安心しな、恩を売りたくてこんな話をしてる訳じゃねえ。俺の職業は殺し屋だ──プロフェッショナルは秘密を守るし、職業上知り得た事情を私的に利用することもない。報酬さえ貰えば、俺とあんたの関係はそれでオシマイさ」

「報酬……とは、何だ?」

「ごく些細な事さ──副隊長権限で、拘置をもう少しばかり延ばして欲しい」クグルノは掬い上げるような上目遣いで幾間を見る。「起訴まで何日間か間を開けて欲しいってだけさ。理由はいくらでも付けられるだろ? そうしてくれりゃ、うちのボスが法的な措置を取ってくれる。問答無用で処刑されちゃその暇もないが、正式な裁判に持ち込んでもらえりゃ文句はねえよ──犯罪者と言えど、その権利を要求することが筋違いとまでは言えねえだろ?」

「根回しを……する気か」

 

 買収か、あるいは脅迫か──手段はともかく、目の前の男は非合法な手段で法の網の目をすり抜けようとしている。

 その手先に、幾間を利用しようと。

 

「魚心あれば水心、ってやつさ」クグルノはこともなげに言う。「あんたは正義の味方かもしれねえが、世界は綺麗事だけで回っちゃいない。汚い仕事をする裏稼業の人間だって、需要があるから存在する。いざとなれば助けてくれる存在もあるってことさ」

 

 幾間は目の回るような怒りを覚えた。

 いともたやすく堕落を持ちかける、その性根の汚濁に。

 恥ずかしげもなく法を踏みにじる行いを正当化する、その精神の腐臭に。

 心底から、吐き気を覚えた。

 

「ふざけるな」押し殺すような声で、幾間は応じる。「俺は憲兵だぞ。取引にも何もなっちゃいない──非合法な手段で我を通して、しかも犯罪者を裁きから逃れさせるだと? 一方的に俺が何もかもを失う取引など、首を縦に振るわけがないだろうが」

「ほう。じゃあ、俺の見込み違いか──」

 

 クグルノは反り返って椅子の背もたれに体重を預け、大袈裟に両手を広げる。

 

「──すべてを失おうとも果たすべき復讐。その重みを、俺はあんたの中に感じたんだがね」

 

 その言葉を契機に。

 幾間の脳裏に、一人の女性の顔が浮かぶ。

 その顔は何百回と脳内に描いた様と同じく──優しく、幾間に微笑みかけていた。

 もう一度会いたい人。

 絶対に会えない人。

 ミズハのせいで死んだ、大切な人。

 

 師匠──。

 

 すみません、と幾間は胸中で呟いた。

 

「薄汚い殺し屋が──人の暗い部分を嗅ぎ当てることだけは一人前だな」

「職業柄、それがないと生き残れないもんでね」

「だが、お前の言う通り見込み違いだ。俺は自分を裏切ってまで、ミズハを始末しようとは思わない」

 

 叩きつけるように言って、席を立つ。

 意外そうに眼を見開くクグルノを見下ろして、幾間は冷え冷えとした声を放った。

 

「取引など論外だ。お前は予定通り、裁判抜きで処刑される──ミズハも法に従って裁かれる。それでこの話は終わりだ」

 

 幾間はもう一度、師の幻影に内心で謝る。

 すみません師匠。あなたの仇を討てる機会を──俺は俺の矜持によって見逃します。

 

 

 

「きっと後悔するぜ」

 

 廊下を歩きながら、クグルノは背後の幾間にそう言った。

 

「捨て台詞とは惨めだな」

 

 無感情に言葉を返し、幾間はクグルノの背を突く。

 これでいい。奴は房に戻り、処刑の瞬間まで二度と顔を合わせることはない。卑怯者の恨み言など、聞き流しておけばいいのだ。

 

「ああいや──」

 

 クグルノはしかし、悔しさなど欠片もない表情で振り返る。

 うねる長髪の奥の瞳が、幾間の目を見つめた。

 

「捨て台詞で言ったんじゃねえよ。別の意味さ」

「…………?」

 

 意味が分からなかった。

 しかし、クグルノはそれきり口を閉ざし──また大人しく歩き始める。

 気にしないよう努めながら、幾間はただ床板を踏みしめた。

 

 階段を降り。

 角を曲がり。

 暗い監房に至って、幾間は足を止める。

 鉄格子の向こうを見た瞬間、頭が真っ白になった。

 

 クグルノが収監されていた房。

 ミズハと二人で入っていたはずの房。

 そこには、誰もいなかった。

 

「どうだよ──後悔したか?」

 

 クグルノが楽しそうに呟く声が、湿った石壁に不気味に反響した。

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