006:「何事も経験さ」

 

「ふむ……」

 

 ミズハは鼻から息を抜きながら、自分を取り囲む陰鬱な石壁を見回した。

 衛生的にもインテリア的にもお世辞にも上等とは言えない湿った石壁が三方を塞ぎ、唯一それがない前面にはしっかりとした鉄格子が行く手を遮っている。セキュリティが万全であることが唯一の利点と言える物件ではあるが、しかしそれはミズハではなくミズハをここに入れた者にとっての利点であるに過ぎなかった。

 

「つまり、私にとっては極めて好ましからざる部屋だということだ」

 

 ミズハは僅かなスペースをせめて有効活用するかのように、虚しく両手を広げて呟く。

 

「なぜ私が牢に繋がれなくてはならないのか、まったく理解不能だ。そう思わないかね?」

「思わねーよ」

 

 応答したのは、ついさっきまでその顔に小路泊の造作を張り付けていた男──変身能力を持つ暗殺者の男である。

 男は部屋の中心に立つミズハの背後で、奥の壁に背を付けて座っている。すでに小路泊の顔を形作っていた液状のものはすべて落ち、癖っ毛の長髪に残滓が絡みついているだけだった。

 彼はミズハを見上げ、言葉を続ける。

 

「あんた、何考えてんだ? 探偵小説の読み過ぎじゃねえのか」

「そんなに読書家に見えるかね? 面映ゆい限りだが、残念なことにそういう方面には明るくないんだ。私の推理がそんなに堂に入っていたというのなら、今後研鑽を積んでみようかとも思うが」

「違(ちげ)ーよ。推理じゃなくて直感だろあんなもん──俺が言いたいのは、わざわざあの隊長が処刑されるのを黙って見てた点だっつーの。その気になりゃ、未然に防げたはずだろ」

「なるほど、それで小路泊を故意に見殺しにした私もこうして捕まったというわけか」

 

 ミズハはたった今気づいたというように深く頷く。

 どこまで本気なんだ、と言いたげに男が顔をしかめた。

 

「しかしだね、君──ああ、確か『クグルノ』という名前なのだったか。そう呼んでも構わないかな?」

「勝手にしろよ」

「ではクグルノ、君は未然に防げたはずだと言うが、私の方にもよんどころない事情があってね──そうはできなかったのだよ」

「事情?」

「うん」

 

 ミズハはそこで初めて振り返り、クグルノと視線を合わせた。

 

「小路泊は、日頃から私の命を狙う者の一人だったからね」

 

 クグルノの表情が変わる。

 

「憲兵隊の隊長が? じゃ、あんたも犯罪者かよ」

「いや、私は犯罪者ではない。連帯感を求める君の想いに応えてあげられなくて心苦しいが」

「求めてねーわ!」

 

 存外キレのいいツッコミをするクグルノに笑みを浮かべながら、ミズハは続ける。

 

「一言で言うなら、彼は憲兵という公職についている裏に、他人に見せられない顔を持っていたという事だよ。報酬を受け取って、法に触れる仕事をこなすというね」

「……マジかよ」

「マジだとも」

 

 小路泊は基本的には内密に、しかし時には憲兵隊長という自らの職権を利用して種々の依頼をこなしていた。盗みや誘拐や暴力、時々は殺しも。

 そして彼が現在受け持っている仕事の一つが──ミズハの抹殺だった。

 

「その線で彼とは何度か顔を合わせていてね──今日、彼に化けた君と話をして、明らかに物腰が違うことには気づいた。そういう意味では、最初から私は君を怪しんでいたよ」

「加えて俺の姿に変えたアイツが必死でアピってる様や、俺が水を嫌う素振りを見せたことで真実に気付いたってわけか。そしてあんたは──この機に、自分の命を狙う追っ手を始末できればと考えた」

「まあ、助けて恩を売っても意味がないと思ったからね」

「驚いたな。随分冷静じゃねえか」クグルノはにやりと笑う。「見たところ十代そこそこの女なのに、そうは思えない落ち着きぶりだとは思ってたけどよ──あんた、相当追われ慣れてるな」

「何事も経験さ。極限状況もずっと続けば、いくらかコツを飲み込めるようになる」

「ずっと続く極限状況、か」

 

 そこで一呼吸置いたクグルノは、興味の光を切れ長の目に宿して問いかけた。

 

「そりゃ──あの憲兵のガキが言ってた『故郷を壊滅させた』ってのに端を発する話か? その事件の後、複数の人間が殺し屋を差し向けてまで取り戻そうとしている『あれ』ってのは何のことなんだよ?」

「話してあげても良いのだが……長くなる話だ、どうせならもっと快適な場所で腰を据えて話したいものだね」

 

 自分を注視するクグルノに微笑みかけて、ミズハは言った。

 

「協力しようじゃないか、クグルノ。ここで待っていても、行きつく先は死刑台だ──二人でここを脱出しよう」

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