003:「異端の国」
黒沢が去って間もなく、身支度を終えて家を出た。
三月の朝は、まだ冷える。首元に巻いたマフラーのちくちくとした感触を楽しみながら、ミズハは部屋の鍵を掛けた。
頑丈だけが取り柄の古びたアパート、その錆の浮いた階段を駆け下りる。かんかんと心地よいリズムが朝の陽光によく合った。
別段用事があるというわけではない──ひとまず町の中心にある広場に足を向けながら、ミズハはぼんやりと考える。
──王の死。
長年辣腕を発揮した彼の死を悼む。今の大霊山の動揺は、単にその悲しみのみから生まれているわけではない。
死んだ王──
彼は生涯で二人の男児をもうけているが、長男は半年前に事故でこの世を去り、次男は出生直後に何者かに連れ去られ消息不明となっている。王位継承者としては最も優先順位の高い彼の直系の息子が戴冠することは、現状不可能である。
それを受け、鋭鋒の親類たち──傍系の王族たちが、次代の王位を狙って俄かに動き始めている。その蠢動、その暗闘が、大霊山全体に不穏さを醸し出していた。
ミズハは道端の樹を見るともなしに見つつ、歩を進める。
そう──現時点では誰が次の王になるのかわからない。
徐々に進行する病や老いなど、準備期間がある程度存在する形での退位ではない──不老不死の能力を持った王であればなおさら、突然の訃報に慌てる王族が大半だろう。
しかし、王位を長期間開けておくこともできない。なぜならある面では、大霊山は異端の国だからである。
大霊山はこの科学一辺倒の世界に唯一逆行する、呪術と魔術の国。実験と観測によって導き出される法則と理論を拒絶し、呪文や儀式によって生み出されるまじないを信奉する異端者の集まる国──時代遅れの仲間外れが寄り集まる場所なのだ。一瞬でも隙を見せれば、多数派に押しつぶされるのは必定である。ゆえに、一刻も早く次の王が起ち、大霊山を再びまとめなくてはならない。猶予などなく、強引でも他者を蹴落として王にならなくてはならない。
国全体を覆う混乱はますます深まる。
治世は終わり、乱世が始まる。
亡国の危機に直面している祖国の大地の上に立ちながら──しかし、ミズハは緩やかに笑っていた。
ほどなくして、ミズハは広場に到着した。
いつも多くの人が往来する、活気ある場所ではあるのだが──今日はより一層、がやがやと騒がしいようだ。
好奇心から、ミズハは広場の中心の人だかりに歩み寄る。
「おう、嬢ちゃん」
人だかりの中の一人──顔見知りの食料品店の店主がミズハに気付き、片手を上げた。
「やあ。こんな朝から散歩かい? もう店が開く時刻だろうに」
「顔を合わせて早々に小言はいけねえや」店主は嫌な顔をする。「お得意さんへの配達の途中、ちょっと寄っただけだよ」
「ここで何かあるのかい?」
「殺し屋が捕まったらしいぜ」
ミズハの脳裏に黒沢の髭面が浮かんだ。
彼のことだからそうそう下手を打ちはしまいが、と思うが、それでも興味のままに爪先立ちになって人ごみの中を覗き込む。
幸いというか何というか、そこに縛り付けられているのは黒沢ではなかった。毛先のカールした長髪の男である──全体的に痩せ型で、尖った顎と鋭い目つきから切れ者の印象を受ける。毒物か、さもなくば能力を主に利用する殺し屋だろうか、とミズハは推測した。
「このご時世、犯罪者摘発はより一層厳しくなってっからなあ。こうして晒し物にされることも増えちゃいるが──今日は処刑までここで行われるってよ。こりゃ、なかなかないぜ」
「ほう」
野次馬根性丸出しの店主に適当に相槌を打つと、ミズハは人だかりの中心に向かって踏み出す。
「おい嬢ちゃん、どうするつもりだ? 危ねえぞ」
「なに、大丈夫さ。ちょっと挨拶をするだけだから」
人ごみを掻き分け、縛られた殺し屋の真ん前にミズハは立つ。
地べたに転がされているその男はミズハを見上げ、目を見開いた。
「やあ。今日は少し冷えるようだが、その服装で大丈夫かい?」
ミズハの言葉に、殺し屋は猛然ともがいた。
猿轡の奥から、言葉にならない声が漏れる。
「その男は君を知っているようだな」
横合いから声がかかる。殺し屋を取り巻く憲兵の隊長が、いぶかしげな視線をミズハに向けていた。
ミズハはにっこりと微笑むと、彼に言葉を返した。
「いや、人違いだろう──私は彼を知らない」
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