第11話 天条家で事情聴取

 築五十年を越えるボロアパートの二階。


 ぎしぎしと軋む錆びた階段を上がり、ただでさえ狭い通路に設置されている洗濯機を体を捻って通り、一番奥の部屋の扉の前へ。


 二〇二号室。

 ここが俺たちの家だ。

 手すりに乗る鳩や洗濯機の上に座っている猫は、俺たちが通っても動く気配がまったくない。


 餌をあげていないのになぜか常駐してるんだよな、こいつら。


「ほれほれパンくずだぞー、今日はなんとパンの耳もあるぞーのラッキーデイ!」

「餌付けしてたのはお前か」


 猫のようにかなたの首根っこを掴む。


「うえ。兄ちゃん早い。パンの耳は兄ちゃんにもちゃんと取っておくから許して」


「残しておくのは当たり前だよ。

 で、餌付けするなって言っただろ。

 ここが動物の溜まり場になったら困る」


「でもこの子たちのおかげでネズミや虫が出なくなったし……、

 あとたまに寂しい時があるから話し相手なんだ。

 あたしの友達なんだよ、この子たち」


 小遣いがない俺たちは友達と遊んでもいける場所が限られてしまう。

 周りも俺たちが貧乏だって知ってるから、気を遣って誘わないし……。

 そうなると意外と暇なんだよな。


 だったら勉強しろって母さんは言うけど、

 暇だからって、じゃあ勉強するか、とはならない。

 特にかなたは。


「パンくずも毎回もらえるわけじゃないし、

 餌がないとこいつらも困るんじゃないか?」


 かなたに依存して餌も取れなくなったら自然界で生きられなくなってしまう。

 一匹残らず飼うわけにもいかないしな。


 それ以前に俺たちの食べ物について、もう少しどうにかしてほしいが……ん?


「イリス、そんなとこでなにしてんだ?」


 階段を上がったところで立ち止まっていた。


「な、なんか大切なネジがはずれたような音がして……、

 大丈夫ですよね、動いた途端に崩れたりしないですよね……?」


「さあ。分からん」

「大丈夫って言ってくれないんですか!?」


「そういうことも普通にあり得る建物だから嘘は言えないよ。

 イリスなら軽いし、大丈夫だと思うけど……心配なら手を引いてやろうか?」


「お、お願いしても、いいですか……?」


 拒否されるかと思ったが意外にも素直だ。

 挑発したつもりだったんだが……。

 まあ、イリスがいいなら俺もやぶさかじゃない。


「ほれ」


「ぎしぎし言ってますけど!? 

 せんぱいもよくもまあ堂々と歩けますねこんなとこ!」


「俺んちだからな」


 細い指を掴んで引っ張ってやる。

 すり足で進むイリスを見ているといっそのこと抱えた方が早いのではと思ってしまうが、それこそ一点に集中する体重が増えるので俺も恐い。


 マジで倒壊する可能性がある。


「ひ、人、住んでるんですね、こんな場所に……」


「バカにするなよお嬢様。人は住もうと思えばどこにでも住めるんだ。意識して見れば公園とかトンネルの中で暮らしてる人とかいるだろ。あの人たちって強いよなあ」


「その人たちに比べたら、ここはマシですけど……あとわたし、お嬢様じゃないです。普通です。せんぱいの感覚がおかしいだけですっ」


 麻痺してることは認める。

 だけど、普通の人から見てもイリスはお嬢様に思えるが。


「使用人とかいるんだろ?」

「……家事代行サービスの人ならいますけど。両親がほぼ家にいないので……」


 ふうん、違うものなのか。

 どっちも似たようなものだと思ってしまうけど。


「うちも一緒だ。片親で、母さんだけなんだけど、仕事で深夜まで帰ってこない。

 だから緊張しなくていいよ。ま、かなたもいるしな」


 すり足のイリスを扉の前まで案内する。

 と、近寄ってきた猫がイリスの足下で寝転がった。


「な、なに、どーしたの……?」

「副会長に撫でてほしいみたいですね」

「いいのかな……大丈夫?」


 遠慮がちに、猫のお腹にイリスが指を這わせる。

 猫が気持ちよさそうに鳴いた。


「わっ、かわいい……っ」


 しばらく、撫で回されてリラックスしていた猫が、突然、飛び起きて扉の前から離れていってしまった。

 アパートの外へまっしぐら。

 隣の家の庭の中まで逃げてしまう。


 イリスが持て余した手を伸ばしながら、


「嫌だったのかな……?」

「人の気配を感じ取っただけだ。ほら。おかえり、こなた」


 イリスたちは猫に夢中で気付かなかったみたいだが、階段を上がってくるぎしぎしと軋む音が聞こえていた。

 二階に上がってきたのは、赤いランドセルを背負った下の妹だ。


 俺たちを見回して、イリスを二度見する。


「…………だれ」


「誰って、こなたも知ってるでしょ。小学校が一緒なんだから。

 イリス副会長……って、こなたからするとイリスせんぱいか」


「ふうん、そ」


 無愛想に答えて、こなたが俺たちの間を通り抜け、ドアノブを掴む。

 引くと――ガタっ、と堅い音がして扉が開かない。


「……兄さん」

「カギ開けてないしな」


「なぜ、言わない……」

「逃げるように帰ろうとするお前を引き止めたくて――って、叩くな、カギ開けるから」


 カギを開けた後、こなたを追うように俺たちも部屋に入る。


 玄関に入るとすぐにキッチンが見える。

 四畳ほどのリビングだ。


 奥の襖一枚を隔てた先には、六畳間。

 ここに家族五人で暮らすとぎっちぎちだ。


 大変そうだとよく言われるが、慣れてしまうとこれが普通になってくる。

 俺たちからすればこれ以上の環境で過ごしたことはないからな。


「ここが、せんぱいの……」


「狭いし汚いけど我慢してくれよ。というか忠告したのに俺んちにくるって強行突破したのはイリスなんだから。それに、文句を言われても改善のしようがないし」


「言いませんよ文句なんて。ただ……その」

「その?」


「温かいなって、思いました」

「温かい? まあ、夏が近いし」


 五月下旬、気温だけなら夏に近い。

 春なんて気付いたら過ぎていた感覚だ。


「そうじゃないですけど……少なくとも、わたしの家よりは、全然」

「クーラーが効き過ぎて寒いとかなら羨ましい話だけどな」


 イリスは否定することなく、そうですね、とだけ答えた。



 六畳間の中心に置かれたちゃぶ台にお茶を出す。


「あ、ありがとうございます」

 とイリスが飲む。


 ……不快感を隠そうと必死に表情を取り繕っているが、まずいならそう言ってくれればいいのに――、俺たちもまずいと思ってるよ。


 水を足して増してるだけで、もうこうなるとお茶というかほぼ水だ。


「わたし、嫌われてますか……?」

「お客さんには誰だろうとこれを出してるから、そんなに落ち込むことないぞ」


 みんな一口飲んで、二口目が進まない。

 まずいとは思うけど、飲めないほどじゃない。


 別に毒を出してるつもりはこれっぽっちもないし、気を遣ったからこそ出している。

 できれば俺だって出したくはないんだ。

 減った分は水で増すからさらに薄まるし。

 それがまずいお茶の原因なのか。


 何事も慣れと認識の問題だ。

 これをお茶と信じて飲み続けていれば意外といける。


 実際、うちの飲料はほとんどこれに絞られている。


「いや、そっちじゃなくて……、

 これを誰にでも出してるとなるとそれはそれで問題ですけど……あの、妹さんの方です」


「こなた? ああ……あれもいつもああだから気にするな。嫌われてる……かどうかは、正直、分からないな。相手にしてくれないってことなら、俺たち兄妹も同じだよ」


 ヘッドホンをつけてラジオを聞いているこなたは、目線を下に向け、学校で借りた本を読んでいる。

 イリスが嫌いと言うより、興味が他にあると言った様子だ。


「気にするな。放っておいていい」

「でも……」

「いいんだ。今は、不用意につつかない方がいい」


 俺の言い方になにかを察してくれたらしいイリスが、小さく頷いた。

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