第44話 第五魔臣マルバス
フェルムは拳を握った。
剣士であるにも関わらず素手で魔族と戦うなど、普通の剣士であれば愚の骨頂だ。しかしこの男は普通の剣士ではない。フェルムには鍛え抜かれた己の肉体がある。
(ちっ、どうかしてたぜ……。剣がねぇなら
剣士だからと言って、剣のみで戦わなければならないという訳ではない。剣に固執し、身体の鍛錬を怠る者こそフェルムからすれば愚か者なのだ。
剣を失った時、剣が効かない時、最後に頼りになるのは己の肉体だ。その精神で、フェルムは日頃から鍛錬を欠かさずに行ってきた。
今がその時――と、強い覚悟で鋭い目に闘志を燃やす。
そんなフェルムの姿をまじまじと見つめる獅子の獣人――マルバスはほくそ笑んだ。
肌に突き刺さる人間の闘志、それをひしひしと感じて。
(……ほう、良き闘志だ。簡単に死んでくれるなよ)
マルバスはぐっと踏み込むと、一気に距離を詰める。
そのまま流れるように右拳をフェルムの顎先めがけて打ち込んだ。
だが、その拳は空を切る。寸前の所で後ろへ仰け反ったからだ。しかし攻撃はそこで止まない。
仰け反った身体を狙って、左回し蹴りを放つ。
めきっ、という音と共に重い一撃がフェルムの右腕に直撃した。
仰け反った身体は無防備だ。まともに蹴りを食らったフェルムは苦痛に顔を歪ませる。だが
倒れまいと足を踏ん張り、よろけながらも左拳に力を込める。そしてただ真っ直ぐに――。
フェルムの左拳はマルバスの右頬に音を立ててめり込んだ。雄々しい獅子の表情が僅かに揺らぐ。だが、拳から伝わる感触にフェルムは目を見開く。
(振り抜けねぇ……!?)
フェルムの重い拳を、マルバスは丸太のように太い首の筋肉のみで受け止めたのだ。そして拳を頬にめり込ませたまま、にぃっと微笑する。
「見事」
マルバスは短くそう言うと、左拳をフェルムの腹に見舞った。身体を起き上がらせるような鋭く重い下段突きだ。その衝撃に、思わず口から空気と共に唾が吐き出る。
「ぐっ……がはっぁ…………!」
そこへ追い打ちをかけるように、高速の右正拳突きがフェルムの顔面を撃ち抜く。
フェルムの肉体はいとも容易く吹き飛んだ。しかし意識はまだある。歯を食いしばり、懸命にその時が来るのを耐える。
数度転がって態勢を整えると、既にマルバスは追撃の構えを取っていた。
――渾身の右上段突き。
フェルムの眼前に、凄まじい迫力で獣拳が迫る。
咄嗟に両腕で頭部を守ると、ほどなくして重い衝撃が両腕を襲う。と同時に、再びフェルムの身体は大きく後方に吹き飛ばされた。
(ぐっ……なんつう力だ。おまけに速ぇ……ちっ)
ぺっ、と血が混ざった唾を吐き捨てて立ち上がると、左腕で口を拭う。
先の蹴りの影響で、右腕にはまだ痺れが残っている。動かせないほどではないが、万全の状態ではないのは確かだ。だが、そんなものは大した事ではない。
歩く事が出来るなら、腕一本使えるなら、それだけでフェルムは戦えるのだ。
(ふぅ…………さて、やるか……!)
不屈の闘志を剥き出しにし、フェルムは左肩をぐるりと回した。
マルバスはただ歩き出す。
その姿はまるで、自然の中で悠々と闊歩する一匹の獅子のようだ。
そんな獅子の頭部に宿す
一人の戦士――戦うべき相手として、フェルムを見据える。
「良き戦士だ、人間。名を聞こう」
「フェルムだ。ちなみに…………戦士じゃねぇよ」
フェルムの返答に、マルバスは首を傾げる。
鍛錬を積んだ肉体、折れぬ闘志。これほどの胆力をもってして戦士ではない、一体どういう事なのか、と。
思考を巡らせていたところへ突如、女の声が響いた。
「フェルム! これを!!」
マルバスは声のする方へ視線を向ける。そこには
その二人は機を見計らったかのように、フェルムの元へ駆け寄っていく。そして
このやり取りを見て、マルバスは先ほどの疑問に答えを出した。
(ほう、この男……剣士だったか。なるほど……!)
獅子の口元は不敵な笑みを浮かべる。相手に不足なし――そんな意味を込めて。
首を左右に曲げ、骨を鳴らす。肩を回し、筋肉を解す。掌で指を鳴らし、気合を込める。準備は万端だ、とでも言うようにグルル……と小さく唸った。
「お前らは下がってろ。
「でも……!」
「おいおい、俺が負けるって言いてぇのか?」
「……いや、そういう事じゃないですけど…………でも、わざわざ相手に合わせなくても――」
「合わせてんのは、向こうだ」
フェルムの言葉にクラルスは表情を険しくする。
その意味を説明するように、フェルムは言葉を続けた。
「奴はいつでも俺達三人を相手にする余裕は見せてたんだよ。でも執拗に俺だけしか狙わなかった。……何故かは知らねぇが」
「そんな……!」
「じゃあこっちは三人でやればいいじゃない!」
アルキュミーが声を荒げる。
彼女の言う事はもっともだ。相手は肉弾戦主体の
だが、フェルムはそれを甘んじて受け入れられる男ではないのだ。
いや、男というのは皆そういうものなのかもしれない。きっとクラルス達には理解できぬ感情。それをフェルムは心に宿している。
「悪ぃな、アルキュミー。それは、俺の剣士としての――男としての矜持が許さねぇぇ」
「はぁ……本っ当にどうしようもない
「ちょっと、クラルス!?」
「私は仲間を――フェルムを信じています。アルキュミーがルクルースを信じたように、私にも信じているものがあるんですよ、ふふっ」
「クラルス……! そう、わかったわ。じゃあフェルム、任せたわよ……!」
信頼する仲間の後押しを受け、フェルムはあぁ、と短く答えた。
そして太い腕を組んだままやり取りを見守っていたマルバスに向かって口を開く。
「待たせて悪かったな」
「構わんよ。さて……フェルム、と言ったな。お主の矜持に敬意を表して、儂も全力で相手をする事を約束しよう」
「へぇ、そりゃあ楽しみだ。ちょうど俺も全力を出せる感じになったとこだ」
そう言うとフェルムは、
「では、参ろうか」
「応っ!!」
拳と剣。
戦士と剣士。
雄と男。
魔族と人間。
勝負は一瞬。お互いに思った。
一撃でいい。一撃さえ当てれば終わりだ。
――――そう思ったのは、フェルムだけだった。
闘志を迸らせたマルバスの獣拳は、ただ純粋に力のみを乗せてフェルムに顔面に向けて伸びていく。風を切る音を置き去りにしたその拳はフェルムの目にはとても大きく視えた。
フェルムはその拳を、首だけを動かす最小限の動きで躱しながら懐まで潜り込む。しかし風圧を帯びた獣拳を完全に躱しきる事はできず、こめかみの辺りを切創して鮮血が吹き出した。左目を開く事が出来なくなり、自身の血で視界はぼやけていく。
だがフェルムは止まらない。いや、止まれない。
この一撃を当てるまで――――と、彼の
初撃を必ず当てる事ができるフェルムの
マルバスの懐から、斬り上げるように放たれた
直後、逞しい獣の肉体から鮮血が溢れ出した。その返り血を浴び、真紅の部分鎧と褐色のフェルムの肌は赤黒く染められる。
「いい拳だったぜ……!」
左目を腕で拭い、フェルムは
だがその時、異変に気付く。
右半身を失った
「おい……どうなってんだ…………!?」
その問いかけに答えるように、マルバスは血を滴らせながら獅子の口を開いた。
そして言葉が出る度に、失った雄々しい肉体がみるみる内に再生していくのをフェルムの目は逃さなかった。
「ふぅむ……良き一撃だった――――が、儂を殺すにはまだ
マルバスは残念そうに言い終えると、鋼のような逞しい肉体は斬られる前の姿へと完全に戻っていた。
首を左右に傾け、ポキポキと音を鳴らす。逆立つ荘厳な
凶暴さを秘めた獅子の口は大き口角を上げ、鋭い牙を剥き出しにして嘲笑う。
(一撃で――――そう思っていたのは俺だけ、だったのか……)
フェルムの
強大な殺気を放ち、不敵に唸り声を上げるマルバスを前にして、フェルムは死を覚悟するしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます