第34話
ずだだだだだだだっ! と駆けてきた何者かは、さらに廊下に潜伏していた何者かに掴みかかった。
「きゃあっ! 何するんですの、愛奈さん!」
「いいから! ちょっとこっち来なさい! 優孝、いるわよね!」
「へ? あ、ああ」
呆気なく自分の存在が露見してしまい、僕はそう答えるしかない。
教室前方に目を遣ると、愛奈が凛々子の首根っこを摑まえながら入ってくるところだった。
「作戦会議よ! 凛々子が秀平に上手く告白できるように!」
「う、うん――って、ちょっと待て!」
僕は愛奈に檄を飛ばした。
「どうしてそのことを君が知ってるんだ? 凛々子は僕にだけ知らせられるように、きちんと手紙を用意してくれたんだぞ!」
僕が怒りを覚えたのは、純粋に『愛奈が凛々子を見張っていたのではないか』と疑ったからだ。しかし愛奈はと言うと、
「は? 手紙? 何それ?」
と言ってぽかんとしている。その隙に凛々子は、愛奈のヘッドロックからの脱出を果たした。
「あたしが来たのは、今日あたり凛々子が秀平に告白するんじゃないかと思ったからよ。でも、凛々子って箱入り娘でしょう?」
「まあね、気は強いけど」
「そうそう。だから失敗しないように、作戦会議を開こうと思ったわけ」
「ふぅん……。でもさ、愛奈」
「何?」
「どうして凛々子の行動をそこまで読めたのさ? 手紙のことも知らなかったのに」
「そっ、そうですわ! あなた、わたくしのストーカーですの?」
「馬鹿言わないで。女の勘よ」
僕は思いっきりズッコケた。が、凛々子は体勢を保った。しかも、喜色を浮かべて。
「さっすが愛奈さん! わたくしがライバルと見込んだだけのことはありますわね! 是非手伝ってくださいな!」
それでいいのか、お嬢様。
※
その日の放課後。
「ふあ~あ……」
ガッタンガッタン椅子を揺らしながら欠伸をする秀平に、凛々子が声をかけた。
「あの、秀平さん?」
「ん? どした、凛々子」
椅子にきちんと座り直し、机の前の凛々子を見遣る秀平。おっと、サングラスを外したな。真剣に話を聞く様子だ。
「ちょ、ちょっと相談がございますのよ。少し、ついて来てくださる? 少しだけ」
「ああ、構わねえよ」
すっと椅子から立ち上がる秀平。よし、上手く誘導できているな。
かく言う僕は、教室の隅で聞き耳を立てながら、スマホを手にしていた。
「目標、誘導準備完了」
《了解》
応答した相手は愛奈だ。彼女は今、屋上で待機している。
そもそも屋上は、弁当を食べる生徒の需要が多い昼休みを除き、立ち入りは禁止されている。
それ以外の時間帯に屋上に出るには、学級委員長か生徒会員の許可証を職員室に持参するか、あるいはそれらの役職に就いている本人たちが職員室に出向いて、鍵を借りなければならない。
何故屋上の話などしているのかと言えば、上記の理由で邪魔が入りにくく、凛々子の告白にうってつけだったからだ。これは愛奈の英断である。
「で、どこに行くんだ?」
「取り敢えずついて来てくださる?」
「ああ、分かった」
やけに素直な秀平。僕は『誘導開始』とスマホに吹き込んだ。
※
僕はそのまま、秀平と凛々子について行った。もちろん気づかれないように、こっそりと。その間、傍から見たら僕は挙動不審だったかもしれないが、構うものか。友人、否、親友の命運がかかっているのだ。
「どこまで行くんだ、凛々子?」
「もう少し。屋上ですわ」
「屋上?」
やや訝し気な秀平。三階から屋上に出る階段の陰に、愛奈が待機していた。僕は尾行を止めて、彼女と合流する。
「首尾は上々ね」
「うん。後は、凛々子の勇気に懸けるしかない」
僕たちは二人の行く末を見守るべく、音を立てずに屋上への階段を上がり、扉を開けた。
まず目に入ったのは、鮮やかな夕日だった。屋上のアスファルトも、丘の下の街並みも、遠くを走る新幹線の車体も、全てが美しい橙色に染まっている。
視線の先では、こちらに背を向けるようにして秀平が立っている。その長身の陰から、僅かに凛々子の姿が覗く。
すると唐突に、鮮血が噴き上がった。
「な、何だ⁉」
「凛々子! 秀平!」
僕と愛奈は隠れて待機するのを止め、二人の下に駆け寄った。
すると、僕より先に到着した愛奈が、呆れたように肩を竦めている。
出血したのは、秀平だ。鼻血らしい。仰向けにぶっ倒れている。
「どっ、どどどどうしたんだ⁉」
「あっ、優孝さん……」
「愛奈、これは一体?」
「秀平も意外と肝っ玉が据わってなかったのねえ」
愛奈と凛々子の説明によれば、凛々子が秀平に告白した直後、興奮か喜びか、取り敢えず何某かの理由で秀平は鼻血を出し、気を失ったらしい。崩れ落ちるように倒れたので、後頭部を強打しなかったのが幸いだ。
「秀平、大丈夫か?」
「起―きーろー、秀平」
僕と愛奈は適当に声をかけたり、肩を揺すったりしてみた。すると、秀平はゆっくりと目を開け、サングラスをかけ直した。
「んあ……。俺は、一体……?」
「ああ、よかった! 意識が戻られたのですね、秀平様!」
「ぶふっ!」
再び秀平は高々と出血した。まあ、仕方ないだろう。凛々子に押し倒され、その拍子に彼女の豊満な胸に顔面を圧迫されたとあれば。
「あれ? 秀平様? 秀平様!」
「あんたはどいてなさい、凛々子! ほら秀平、起きて! 保健室に行きなさい!」
「う……ぐぁ……」
バトルコミックで主人公に半殺しにされた雑魚敵のような、それでいてどこか哀愁を漂わせる秀平。
「凛々子、秀平に近づきすぎないようにしながら、彼を保健室に連れて行ってもらえる?」
秀平に肩を貸そうとした凛々子に、愛奈が注意を促す。
「秀平、歩けるよね?」
「ぐっ……何とか、な……」
「ちょっと、本当に気をつけてよ? 友人として、って意味だったら、あんたはあたしにとっても大事な人なんだからね?」
「ん……」
数歩後ろに凛々子を従えるようにして、秀平は屋上を辞した。
残されたのは、僕と愛奈の二人。僕たちはしばし、二人の消えた階段扉を見ていた。
先に口を開いたのは、愛奈である。
「結構冷たい女だよね、あたし」
僕は言葉を返さなかった。彼女の言わんとするところが分かったからだ。
何故、愛奈は冷たいのか? 理由は明白で、今保健室に向かった秀平と凛々子の手伝いをしなかったからだ。
秀平が鼻血を噴出してしまうのは凛々子を意識する時のことであって、手助けするなら僕か愛奈のどちらかが付き添えばよかっただけの話だ。
それなのに、そうしなかった。まあ、僕も同罪だけれど。
しかし、さらに一歩踏み込んで考えてみる。何故、付き添わなかったのか? ――二人っきりで、話がしたかったからだ。
「ねえ、優孝」
くるりとこちらに振り返る愛奈。背中で両手を組んで、いつも通り長髪をポニーテールに括り、しかしいつにもなく頬を赤らめている。そして、その姿は鮮やかな夕日に照らされ、長い影を作っている。
はっとした。こんな光景を、僕は見たことがある。デジャヴなどではない。確かに、僕の胸に刻まれている。
そうだ、五年前のこと。夏祭りの会場で、提灯の灯りを浴びて、何かを伝えようと必死だった愛奈。
いまの僕になら分かる。愛奈が何を言おうとしているのか。僕がどう受け止めたいと思っているのか。
「優孝、あのね? あたし、優孝のことが――」
「僕もだよ、愛奈」
「えっ?」
目を真ん丸くする愛奈。まさか僕に、ここまで空気を読む能力があるとは思わなかったのだろうか。だとしたら、それこそ酷い話だ。
「じゃ、じゃあ――」
そう言いかけた愛奈に向かって、僕は一歩。もう一歩。そして、そっと彼女の背中に腕を回した。
『好き』という言葉を聞きたくなかった。嬉しさのあまり、自分が泣き出してしまうと思ったから。しかし、涙腺は愛奈の方が脆かった。
「馬鹿……。優孝の馬鹿! ずっと、ずっとあんたのことだけ見てたのに! あんたは全然気づかないから……!」
「ごめんね、愛奈」
やっぱり、言うしかないか。
「好きだよ」
「……かい」
「えっ?」
「もう一回」
「大好きだよ、愛奈」
「もう一回……」
僕はしばしの間、愛奈の涙を引き受け続けた。
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