第31話

 僕が化学部室を振り返った、その時だった。

 ギラン、と何かが妖しく、そして凶暴に光るのが見えた気がした。


 廊下には、突っ伏している秀平とテロリスト十一人、それに、ぺたんとへたり込んでいる岳人先輩がいる。

 心臓が嫌な脈打ち方をした。


「そうだ!」

「ちょっ、優孝、どうしたの?」

「愛奈は秀平を診てやってくれ! きっと戸沢は化学部室の扉の向こうだ!」


 僕は視線を前に戻し、岳人先輩に近づいた。


「先輩、怪我は?」

「だ、大丈夫だ……。くっ、我輩としたことが……。拳銃使いが拳銃で脅されて、防衛線を破られるとは……」

「戸沢はこの扉の向こうにいるんですね?」


 ぶるぶる震えながら頷く先輩。間違いないらしい。僕は一人で、扉の向こうへ踏み込んだ。


         ※


 ぎいっ、と軋んだ音を立てて、扉を通る。

 視線の先では、凛々子がスポットライトを浴びていた。戸沢も一緒だ。拳銃を凛々子の側頭部に突きつけている。僕は暗闇から、光の輪の方を睨みつけた。


「止めろっ!」


 竹刀を構えて叫ぶ。しかし、戸沢はこちらに一瞥をくれただけで、ぴくりとも動かない。

 驚くべきは凛々子の精神力だ。こんな状態にありながら、呪文の詠唱を止めていない。きっと今詠唱を止めてしまっては、ハネコの回復効果がリセットされてしまうのだろう。

 がたがたと足を震わせ、瞳から涙を溢れさせながらも、詠唱を続ける凛々子。何とか彼女の身を安全にしなければ。


「このまま時間が経てば、お前の負けだ! 呪文の詠唱が終わったら、僕たちは現実世界に帰って、お前たちのことを警察に通報してやる! それに、僕たちが力を合わせれば、お前をここで倒すことだってできるんだ!」

「ほう。確かにそれは道理だ。だがな、優孝くん。こんな環境ではどうかな?」


 低く、呟くように語る戸沢。すると、世界がぐるん、と一回転した。


「うわっ⁉」


 バランスを崩した僕に、三発の銃弾が迫りくる。僕は壁を蹴るようにして、何とかこれを回避。だが、戸沢の狙いは僕に痛みを与えることではなかった。『空間を構成し直す』ことだった。

 バン! と特大のシンバルを鳴らすような音がして、この空間全体が白い光に満ちる。スポットライトは消え去り、しかし凛々子と戸沢は平然とその場に立っていた。


「なっ、何をした⁉」

「簡単なことだ。この空間を、元の現実世界から隔離したんだ」

「現実から……隔離?」

「そう。ここで経過する時間は、精神的には進むが物理的には進まない。そうでなければ、私とて君とゆっくり話すことはできないだろう」


 つまり、戸沢は無限の時間を手に入れたに等しいわけだ。これでは、ハネコが全快しても、僕たちを元の現実世界に戻すことはできないかもしれない。


「と、戸沢! どうしてお前にこんな力が使えるんだ!」

「クロコくんから教わったんだよ。我々地球人でも、少しばかり訓練すればこのくらいの芸当はできるらしい。だが――まあ、教えてしまっても構うまい。ここは、完全な隔離空間ではない。『勇気のあるものは通れない』、すなわち『臆病者には通過できる』という抜け道がある。向こうの精神空間からやって来られるのは、勇猛果敢なご友人でも、任務に忠実な自衛隊員でもない。実質、誰も通れないに等しいだろうな」

「そんな……」


 戸沢は微かに口元を緩ませながら、こう言った。


「君たちは、我々が君たちを人質にして、この国の教育庁――いや、今は文部科学省と言うんだな――とにかく、そこから研究情報を奪い取るのを大人しく見ていてくれればいい」

「何だと?」


 待てよ。大金を得るつもりなら、総務省や防衛省、国土交通省などの方が効率がよくはないか? どうして教育に関わる文部科学省を標的にしたんだ?


「君の疑念は分かる、優孝くん。どうして我々が、教育関連の省庁を狙おうとしているのか、疑問なんだろう?」

「くっ」


 心が読まれている。そのことに警戒感を強めていると、『ネタばらしをしよう』と戸沢が言ってきた。眼帯のない左目で、すっと僕を見つめる。そこに敵意はない。一抹の穏やかささえ感じられた。


「私はこの学校、桜滝高等学校の生徒だったが、退学処分を受けたのだ。父親が国会議員でありながら不正を働いた、その見せしめとしてな」


 僕ははっとして目を見開いた。


「た、退学?」

「そうだ。私は父を恨んだ。どうして賄賂など受け取ったのか、そのために家族が四散する恐れがあることを考えなかったのか、問い詰めたいのは山々だった。だが、それは叶わなかった。事が明るみに出ると間もなく、父は自ら命を絶ったからだ」

「なっ……」

「いずれにせよ、この国はそういったスキャンダルに敏感だ。私も母も、世間の非難に晒された。だから私は、この国、いや、この国の教育機関に復讐を誓ったのだ。連中をのさばらせていては、また父のような人間が出てくる。それを防ぐためにもだ」


 遠くを見るような目をする戸沢。僕はひどく狼狽えてしまい、竹刀を握っているのがやっとだ。


「もしかしたら、父は何も悪くなかったのかもしれない。何らかの政争に巻き込まれたのかもしれない。だとしたら、復讐する先は組織しかあるまい」

 

 そこでふと、僕はある疑問に直面した。戸沢の行動には、決定的な穴がある気がしてならなかった。


「一つ訊かせてほしい」

「構わんよ」

「それほど憎む相手がいるのなら、どうして僕だけをこの精神空間に通したんだ? 誰も通さなければ、この作戦は最初から上手くいっただろうに」


 戸沢の左目の瞳孔が、少し広がったように見えた。そして、その目が初めて僕の瞳を捉えた。そんな気がした。


「君の父上は自衛官だそうだな。私の父よりも、愛国心や忠誠心は高いだろう。君はそんな父上を持って、幸せか? 仕事、いや、任務のために家庭を犠牲にしたことは、一度や二度ではあるまい? そんな親を、君は許せるのか?」


『それを訊きたかったんだ』――そう言って、戸沢は口を閉ざした。


「許せるわけ……ないじゃないか」


 一瞬、誰の声かと思った。自分の声帯が震えているのに気づいたのは、僅かに後のこと。


「父さんは、自分の任務のために家族を捨てたんだ! 金銭的に問題がない、だから構わない。そんな考えだったんだよ! 母さんも母さんだ、僕の気も知らないで、すぐに離婚届なんか用意して……! 僕だって憎い、憎いんだよ、両親が!」


 厳しい目をしてこちらを向いたまま、戸沢は拳銃を下ろした。セーフティをかけ、ホルスターに戻してから、その場で腕組みする。


「だったら――」


 同士になれ。そう、戸沢の声が聞こえた気がした。精神世界に居続けると、他人の心が読みやすくなるらしい。

 だが、僕が頷くことはなかった。クラスメイト――長谷川くん、渡辺さん、安藤くん――の相談に乗った時、僕には彼らの感情が、ヤマタノオロチのように見えたことを思い出す。

 あれが不安や怒り、憎しみの感情の表れだとするなら、ハネコの言った『怒りに呑まれてはいけない』という言葉にも納得がいく。


「戸沢さん、僕はあなたと同じ道は選ばない」

「ほう?」

「僕はあなたを殴らないし、憎むこともしない。この竹刀や拳は、父親を殴る時のために取っておく」

「つまり君は、我々の同士にはならずとも、敵でもない、ということだな?」


 僕は口ごもった。自分の立場のことなど、頭の中になかったのだ。ただ一つ、確かなのは、


「殴った後で、僕は父親を許す。そして復縁させるんだ、両親を。そのためには、僕はあなた方の人質でいられるほど暇じゃない。早く僕たちを現実世界に帰してほしい」

「よく言ったな、少年」


 戸沢は再び口元を緩めた。今度は左目もまた、喜色を帯びているように見える。


「しかし残念ながら、君の家族再構成計画と、我々の計画は別物だ。君の都合に合わせて行動するわけには――」


 と、戸沢が言いかけた、次の瞬間だった。

 ビリリリッ! と耳障りな音がした。大きなプリント用紙を破り捨てるような音だ。

 何事かと振り返ると、そこには――。


「おわっ! ちょ、待ちたまえ!」

「いいからあんたが先に行け!」

「ハネコから連絡が入ったばっかりでしょう? 少しは先輩らしいところを見せなさいよ!」


 岳人先輩、秀平、そして愛奈。三人が、この順番でぞろぞろと踏み入ってきたのだ。


「馬鹿な! ここは完全な封鎖空間のはず――」

「や、やっぱり我輩には無理だ! あの眼帯怖いよぉ!」

「あっ、逃げるな!」


 振り返った先輩の胸倉を、秀平が掴む。驚いた先輩が後方、すなわち僕や戸沢の方に拳銃を放り投げる。

 それは綺麗な弧を描き、飛んで、飛んで、飛んで、戸沢の眉間を直撃した。

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