第27話【第六章】

【第六章】


 夕飯は、僕とおじさん、おばさんの三人で摂った。今、僕は豊崎家をあとにすべく、玄関で靴を履いている。


「いやいや、優孝くんも立派になったな! 高校でも友達はできたかい?」

「はい、おじさん。ありがとうございます」

「いっつも愛奈がお世話になっちゃって悪いわね、また遠慮なく来てちょうだいな」

「喜んで」


 おばさんに向かい、笑みを向ける僕。引き攣っていなければいいのだが。


「ほら、愛奈! 優孝くんが帰るぞ、挨拶しなさい!」

「ああ、いいんです。ちょっと僕が、愛奈さんを傷つけちゃったみたいで」

「喧嘩でもしたのかしら?」

「うーん……そう、でしょうか」

「全く、いつまで経っても子供なんだから。愛奈!」

「大丈夫ですよ、おばさん! どうせ明日、学校で会えますから」

「ごめんなさいね、ちゃんと仲直りするように言っておくから」


 曖昧な返事をして、僕は豊崎宅を辞した。

 振り返り、閉じられた玄関扉を見て呟く。


「羨ましいな」


 両親が仲良く健在だということの有難みを、僕は痛感させられた。

 じわり、と内蔵が汗をかくような嫌な感覚が、全身に走る。


 そうだ。家族がいるのに友人関係まで上手くやっていこうだなんて、愛奈は欲張りなのだ。きっとそうに違いない。

 僕はそうやって、湧いてきた妬み、怒りを胸中に畳み込んだ。


 いつの間にか、雨は止んでいた。

 真っ暗になった街路を、街灯に照らされながら歩く。僕は愛奈に嫌われてしまったのかもしれない。いや、間違いなくそうだろう。だがそれはお互い様だ。愛奈が恵まれ過ぎなのだ。


「はあ……」


 電信柱にもたれかかり、ふっと息をつく。街灯に羽虫が群がっているのが見える。

 あいつらも嫉妬心など抱くのだろうか? まさかな。そんな複雑な関係性を鑑みるに、やっぱり人間というのは生き辛い生き物なのだと実感する。


 一体いつから世捨て人の如き思考に陥っていたのか。

 性に合わないことを考えているうちに、いつの間にか僕は自宅の玄関扉の前に立っていた。

 一抹の期待と不安を抱き、ドアノブに手をかける。


 鍵は、閉まっていた。


「やっぱり父さんは仕事人間なんだな」


 僕は大袈裟に肩を竦め、どっとため息をついてから、鍵を取り出して玄関に上がり込んだ。


         ※


 翌日。

 記憶が飛び飛びである。授業内容は、右耳から入って左耳から出ていくような感じで、集中できていたとはとても言えない。

 それもそのはずで、僕の注意はずっと愛奈に向けられていたからだ。


 僕の机の位置からすると、愛奈の姿は肘しか見えない。しかし、それでも愛奈が僕と同様に、平静でないことは確かだった。

 肘が全く動いていない。すなわち、板書を写しているわけではない。また、自分で問題を解き進めている様子でもない。


 愛奈、君は今、何を考えている?

 ああ、ハネコがいてくれたら一発で分かるのに。そうは思ったものの、僕は慌ててかぶりを振った。

 そうだ。ハネコに頼り過ぎたから、愛奈が怒った、という面はあるかもしれない。そうでなくとも、僕は昨日、愛奈の部屋で、彼女が人間関係構築のために努力し続けてきたことを否定するような発言をしてしまった。

 それから喧嘩になり、愛奈は塞ぎ込み、僕はどうしようもなくなり……。


 せめてこのくらいは、自力で何とかしなければ。ハネコに頼ろうとするのは、悪魔の囁きみたいなものだ。

 とは言っても、もちろんそれは、『ハネコ=悪』などというわけではない。ハネコに頼ってばかりなのが悪いのだ。これは僕が自分で乗り越えるべき問題であり、全責任は僕にある。


 ふと、僕は違和感を覚えた。

 いつの間にか、自分の胸中に『現実に立ち向かうべし』という意識が芽生えていたことに気づいたのだ。

『あれっ』と小声で呟く。一体どうして、こんな意識改革が起こったのだろう。


 次の瞬間に脳裏に映ったのは、昨日の夜、愛奈の両親と共に夕飯を食べた時のことだ。

 愛奈の両親がかけてくれた言葉が、何度も何度も繰り返される。


『ありがとう』『もっと食べて』『是非また来てほしい』『身体を大切に』――。


 何と単純で、しかし味わい深い言葉だろう。

 僕だって、こんな言葉を両親から貰いたかった。もっともっと貰いたかった。それを両親は投げ出したのだ。


 再び怒りに猛進しようとする思考を、僕はどうにか捻じ曲げた。今は考えるべきことがある。怒りに駆られ、暴力的になるべきじゃない。


『考えるべきこと』、それは、『どうすれば両親は復縁してくれるか』ということだ。

 僕は結婚などしたことがないから、どうやって配偶者に心を開くべきか、分からない。


 それでも、子供として、息子として、望みはある。要は、構ってほしいのだ。

 他人が僕を見て、ファザコンだマザコンだとレッテルを貼るのは簡単だ。僕だって覚悟している。

 それでも僕は、家族が欲しい。失われてきた十二年ほどの時間を、何とかして取り戻したい。


 それでは、僕はどうすべきだろう。

 これは『片峰優孝』という子供と、その両親との戦いだ。いかにして互いを丸め込めるかという、一発限りの真剣勝負。

 こんな時こそ、ハネコの助力を得たいところだったが……。


 そうだ。岳人先輩を頼るのはどうだろう。

 彼は明らかに変人だが、情報通であることもまた疑いの余地がない。放課後には、早速化学部室に向かおう。きっと先輩ならいてくれるはずだ。


 そして、放課後。

 僕は誰かに占いを要請される前に、さっさと教室をあとにした。

 鞄を肩にかけ、足早に廊下を闊歩する。気づいた時には、部室棟の一階、最奥部へと目を遣っていた。

 しかし、そこでやや意外な光景を目にした。


「あ、あれ……?」


 化学部室の前に、人影がある。見慣れた三人だ。


「皆、ど、どうしたんだ? 秀平も愛奈も凛々子も……」

「はぁ? 何言ってんだよ、優孝。ハネコが伝えに来たじゃねえか、今日の放課後は、急いで化学部室に向かえって」


 訝し気に答える秀平。

 どういうことだ? 僕には何の連絡もなく、それどころか気配さえ感じさせなかったのに。


「優孝様とご一緒じゃありませんの、ハネコさん?」

「うん、ちょっと姿が見えないんだ。でも皆には聞こえたのかい、彼女のテレパシーが?」

「左様ですわ。ちゃんと頭の中に響くように」


 何が起こっているんだ? ハネコの意図が見えない。一体どうしたことだろうか。


「とにかく、俺たちが集められたってことは、宇宙人に関わることなんだろ? 面倒だ、さっさと済まそうぜ」


 そう言う秀平を先頭に、僕たちは化学部室に足を踏み入れた。

 そして、唐突に視界がブラックアウトした。


         ※


 これは、経験したことがある。精神世界へ引っ張り込まれる感覚だ。視覚と聴覚、それに落下していく体感が失われ、やがてすとん、と地面に軽く落とされる。

 今回は、僕たちが気を失うことはなかった。


 僕の視界には、四つの人影。秀平、愛奈、凛々子、そして岳人先輩だ。僕たちは丸いスポットライトを浴びるような格好になっており、周囲は未だに漆黒の闇である。


「どわはっ! ここは⁉ ここはどこなのだ⁉ 我輩の身に何があったのだ⁉」

「ちょっ、暴れないでください、先輩!」

「むぐ!」


 岳人先輩の口を、愛奈が押さえる。ってこれ、ヘッドロックが決まってるんじゃないか? まあ、先輩なら大丈夫だろう。何故かそんな予感がした。

 問題は――。


「俺たち、どこに飛ばされたんだろうな。何も見えねえ」

「それに、何も聞こえませんわね」


 そばにいたからだろう、凛々子は秀平の腕に引っ付いていた。羨ましくはないが、秀平も気づけばいいのに、とは思う。意中の女子にくっついてもらえるなんて、そうそう起こるシチュエーションでもあるまいに。


 怖々皆で周囲を見渡している、まさにこの時だった。


(ヘーイ! 皆揃ったかーい?)

「うわっ!」

「何だ?」


 唐突に、テレパシーが流れ込んできた。しかし、明らかにハネコのそれではない。キンキン声のハイテンションな気配だ。


「誰だ!」


 僕が叫ぶと、暗闇の向こうで何かが煌めいた。それはゆらゆらと揺れながら、ゆっくり僕たちに近づいてくる。


(いやー、ごめんごめん。優孝くんとは初対面だよね? ボクはクロコ。ハネコ先輩の同類だと思ってくれればいいよ!)


 そう言い終える間に、新たなる妖精――自称・クロコは、ひらひらとスポットライトの前に入って来た。

 羽があるのはハネコと一緒だが、姿は少年だった。短い茶髪に真っ青な瞳。黒のジャケットに、これまた黒のダメージジーンズ。クロコとはよく名乗ったものである。


「ハネコは? ハネコはどうしたんだ?」

(ああ、彼女なら――)


 ぱちん、と指を鳴らすクロコ。すると、上からゆっくりと鳥籠のようなものが下りてきた。

 その中で騒ぎまくっているのは、今度こそハネコだった。


(あーったくもう! あたいを放せ! クロコ! こんなことしてタダで済むと思ってねえだろうな、ええ⁉)

(まあまあ、ちょっと黙っててよ、先輩! ボクにはボクの任務ってものがあるからね)


 再びクロコが指を鳴らすと、ハネコは突然脱力し、鳥籠の底に横たわってしまった。

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