第26話

「はい、優孝くん」


 おばさんから差し出されたのは、一枚のタオルケット。『ありがとうございます』と呟くように言いながら、僕はそれを両手で受け取った。

 しばし、そのタオルケットを眺めて考える。本当に、僕はどうしてしまったんだろう? もしかして、ハネコの失踪と関係があるのだろうか?


 ハネコは言った。『怒りに呑まれるな』と。逆に言えば、無意識の範囲で、ハネコは僕を制御していたのか? だとしたら、恐ろしい話だ。

 ハネコは一週間でいなくなる。僕は僕を、僕自身の力で制御できるようになるのか?


 すると突然、横合いから腕が伸びてきた。


「うわっ!」

「ほら! 頭を拭けって言ってんでしょうが!」

「な、何すんだよ、愛奈!」


 タオルケットをかっぱらった愛奈が、それを使って僕の頭を揉みくちゃにする。


「自分でできるよ! 風邪をひかないように……はくしゅっ!」

「ほら見なさいよ! いつまで経っても動かないから、あたしが代わりに拭いてあげてんの!」

「う……」


 僕は大人しく、自分の手を引っ込めた。ぐわしぐわしと、愛奈は僕の髪をぐしゃぐしゃにしていく。すると、おじさんの姿がちらりと目に入った。


「おや? 二人共まだ玄関にいたのか。愛奈、優孝くんを部屋に通してあげなさい」

「はっ、はあっ⁉」

「母さんが後でお茶とお菓子を持って行くから。ああ、その前にお風呂だな。優孝くん、ここを自分の家だと思って、くつろいでくれ」


 僕は再び、『ありがとうございます』と呟いた。しかし、その小さな声はすぐに掻き消されてしまった。


「ちょっと待ってよ、お父さん! どうしてあたしが優孝を、じ、自分の部屋に通さなきゃいけないの⁉」

「どうしたんだ、愛奈? 今まで普通に二人で勉強してたじゃないか」

「そ、そうだけど! でも、今は……」


 待てよ。確かにおじさんの言う通り、僕は愛奈の部屋に気安く出入りしていた。それなのに、一体どうして愛奈はそれを頑なに拒絶しているのだろう?

 考えろ、考えるんだ、片峰優孝。何かここ数日、愛奈との会話で変わったことはなかったか?

 愛奈は『今は』と言っている。つい最近、高校に入ってからのことで何か――。


「あっ、そうかあ!」


 僕は思い当たった。ハネコの助力なしで。


「愛奈、君が僕のことを好いてくれているのが僕にバレちゃったから、恥ずかしいんだね?」


 よくぞ思いついた、片峰優孝! これは、他人の心を読めないというコンプレックスを振り払うための、大いなる第一歩だ!


 しかし、喜びは束の間だった。

 おじさんが軽く口笛を吹き、そそくさと退散する。台所にいるおばさんと何やら話し合う気配がしたが、具体的な内容までは分からない。


 それより問題は、僕のすぐそばから伝わってくる怒りの熱量である。いや、怒りだけではない。恥ずかしさという成分も多分に含まれている。


『あらまあ!』というおばさんの、嬉しそうな声が聞こえた直後。


「さっさと風呂に入れ、おんどりゃあああああああ!」


 僕は愛奈の回し蹴りで、勢いよく洗面所に吹っ飛ばされていた。


         ※


 約十五分後。

 浴室を出ると、タオルと一組の下着、それにジャージが置かれていた。下着はいち早く、乾燥機で乾かしてもらえたらしい。有難いやら申し訳ないやら、僕は恐縮してしまった。


 先ほどの続きになるが、愛奈の様相が変わったのは理解できた。僕のことを好きになってくれて(何故だろう? そこまでは分からないな)、僕も彼女を大切に想っている。

 そう、ここだ。愛奈のみならず、僕の心もまた変化したようだ。ジャージを拝借しながら考える。ここ最近の、僕と愛奈の身にあったことを。


 真っ先に思い出されたのは、やはりヤマタノオロチとの戦いだ。愛奈が吹っ飛ばされた時、僕は大慌てだった。彼女を救うべく、必死だった。それが、スライディングキャッチ及びお姫様抱っこに繋がったのだけれど。


 もしかして、あの時僕は怖かったのかもしれない。愛奈という、唯一無二の幼馴染が命を落としてしまうということが。

 愛奈の身体を軽いと感じたのは、精神世界で彼女がダメージを受けて、心を一時的に封鎖されていたからではないか。


「ふむ……」


 顎に手を遣っていると、洗面所の扉がノックされた。


「はい?」

「あ、優孝? もうお風呂上がった?」

「うん、いいお湯だったよ」

「そっか」


 幾分落ち着いた様子の、愛奈の声。どうやら、再び蹴りを喰らう恐れはないらしい。


「じゃ、じゃあ……あたしの部屋、来る?」


 ばごん! と音を立てる勢いで、心臓が跳ねた。

 愛奈の部屋であるフローリングの六畳間は、僕にとっては見知った場所だ。どうしてこんなに緊張するのだろう?

 取り敢えず返答をせねば。


「う、うん、愛奈さえよければ」


 すっと、扉の向こうから人の気配が消えた。さっさと着替えて上がってこいということなのだろう。

 僕は一旦リビングに顔を出し、おじさんとおばさんにお礼を言ってから、二階の愛奈の部屋へと向かった。


 今度は僕がノックする番だった。『どうぞ』と、いつも通りの愛奈の声。僕もいつも通り、『お邪魔します』と一言。


 ドアを押し開けると、やはりそこには見慣れた光景があった。角の丸い、長方形のテーブル。左右の壁際には、それぞれテレビと勉強机。部屋奥にはベッドがある。

 愛奈は部屋着に着替えていた。テーブルとベッドの間に腰を下ろし、テレビを観ている。地方のニュース番組が放送されていて、そこからは犯罪組織云々と、不吉な言葉が聞こえてきた。

 しかし、愛奈はお構いなし。すぐにテレビを消し、やや厳しい顔を作ってこう言い出した。


「今はハネコちゃんは一緒じゃないの?」

「うん。さっきから姿が見えなくて」

「もう宇宙に帰っちゃったのかな?」

「いや、あと一週間は地球にいられる、って言ってたから、僕の口下手さが治るように訓練を――」


 と言いかけて、僕は慌てて身を引いた。

 愛奈が膝立ちになり、思いっきり身を乗り出してきたからだ。

 バン! という音と共に、テーブル上のお菓子が飛び跳ねる。


「それが気に食わないのよ、あたしは!」

「あ、愛奈?」

「どうしてあんたは宇宙人の言うことを鵜呑みにするの? これはあんたの人生! あんたの決断からしか生まれない、あんただけに開かれた道なの! それなのに、他人に気配りすることに対して他力本願になるなんて、最低よ!」


 僕は言葉を失った。

 愛奈が突然怒り出したので、それに驚いたということもある。だが、その驚きは、すぐさま怒りに切り替わった。


「僕は……僕はッ!」


 こちらも拳をテーブルに叩きつける。


「まだまだ怖いんだよ、人の心ってものが! いろんな人の相談に乗って、それがよく分かった! 心っていうのはぐらぐら揺れるし、ぱっと見で分かるものじゃない。それがどんなに怖いことか、君には分からないだろう!」

「だから努力しろってんのよ、馬鹿! あんた、あたしが何の悩みもなく、自分勝手に生きてるとでも思ってたの?」

「……違うのかよ」


 すると、ぴたりと愛奈の言葉が止まった。じっと僕の目を見つめている。僕はそのまま見つめ返す。すると、愛奈の瞳がみるみる潤んできた。


「優孝の馬鹿! 馬鹿馬鹿ばーーーか!」


 そして愛奈は振り返り、ベッドに上がって掛布団を引っ被ってしまった。

 その時、ちょうど部屋の扉がノックされた。


「愛奈? 入ってもいいかしら?」


 僕は部屋の主の方を見遣ったが、布団はぴくりともしない。


「あっ、はい、大丈夫です」


 勝手ながら、代わりに対応させてもらう。扉を開けて入ってきたのは、案の定おばさんだった。


「優孝くん、晩ご飯一緒に食べて行くでしょう?」

「すみません。ありがとうございます。ご馳走になります」


 こうした会話は何回繰り返されたか知れない。しかし、今は異常事態だ。

 愛奈が布団にくるまって、出てこようとしないのだ。未だかつてないことだった。少なくとも、僕が見てきた中では。


「ちょっと愛奈、あんた、どうしたの?」

「ああ、愛奈はちょっと、あの、お腹が痛い、とかで……」

「あらそう? あんたも雨に当たったんだから、さっさとお風呂入っちゃいなさい」


 おばさんは意外なほどあっさりと、悪く言えば素っ気なく部屋をあとにした。

 ううむ、確かに今の愛奈と会話を試みるのは難しそうだ――などと、僕は呑気なことを考えた。瞬間的に出てしまった、自分の発言を棚に上げて。


『違うのかよ』と僕は言った。そうしたら、愛奈はベッドに引き籠ってしまった。もしかしたら、自分が楽をしているように見られたことが悔しかったのかもしれない。


 愛奈はクラスで、早くもムードメーカーになりつつある。仮にその裏に努力があったとしたら、一体どれほどの汗や涙を、愛奈は流してきたのだろう? 僕には想像がつかない。


 短いため息と共に、僕は正座を解いて立ち上がる。扉を閉める時、部屋の奥を振り返ったが、愛奈は丸くなったままだった。

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