第25話

 僕は意識を切り替えて、秀平に向き直る。すると、ちょうど彼も同じことを考えていたらしい。僕たちは実験用テーブルを挟んで向き合った。


「まあ、相談ってほどでもねえんだ。ただ、誰かに話を聞いてもらいたい時って、あるだろ? 優孝、お前にならゆっくり話を聞いてもらえると思ってな。面倒かけてすまない」

「いっ、いや、そんな……」


 深々と頭を下げる秀平に、僕は顔を上げてくれるよう促す。僕のそばでは、水晶玉から出てきたハネコがふむふむと頷いている。

 確かに、解決策など見つからなくとも、話せるだけで心を立て直せる、ということはあるかもしれない。


 秀平はサングラスを外し、真っ直ぐ僕と目を合わせた。


「単刀直入に行くぞ。俺の親父とお袋、仲が悪いんだ」


 僕ははっとして、目を見開いた。両親の不仲、だって?


「親父もお袋も仕事熱心でな。確かに、俺はそんな二人を立派だと思ったし、十分可愛がってもらえたと思う。でなけりゃ、一人暮らしの生活費なんて工面してもらえなかっただろうし。だけど、二人の間には決定的な差が生まれてしまった。何の差だと思う?」

「えっと、それは……」

(時間、だな? 秀平)

「そう。肝心の、家族皆で過ごせるだけの時間がなくなっちまったんだ。まあ、俺はそんな両親の下から逃げ出してきた、とも言えるかもしれないな。親父もお袋も高給取りだったから、金の心配はなかったし」

「そう、だったんだ」


 深く頷く秀平。


「よくよく考えてみりゃ、俺は両親に利用されていただけだったのかもしれない。俺がいれば、互いに牽制して離婚を思いとどまる。親父とお袋はそう考えて、相手を見ていたんだろう」

「そんな、酷い!」

「さあどうかな。俺は今も両親の金で暮らしてる。自立のできねえただのガキだ。そんな奴に、親に文句を言う権利なんてあるか?」


『だからお前に聞いてもらいたかったんだよ』――そう言って、秀平はサングラスをかけ直した。


 その時だった。ぶわり、と僕の視界が歪んだ。秀平や岳人先輩の姿、部屋に散らばる実験器具、起動中のスクリーンの静止画像。それらの輪郭が曖昧になり、色がなくなっていく。

 まるで、油絵が水墨画に移り変わっていくかのようだ。


「お、おい、どうした、優孝?」


 秀平が心配げに声をかけてくる。しかし、それは僕の耳には届いても、頭にまでは浸透してこない。

 大人、許すまじ。両親、許すまじ。

 僕は今まで体験したことのない、凄まじい怒りに囚われていた。気づいた時には、僕はガタン! と丸椅子を蹴倒し、化学部室を後にしていた。


(優孝! それじゃいけねえ! それはお前自身の感情じゃない! 怒りに呑まれちまうぞ! うわっ⁉)


 怒りに呑まれる? それがどうした。その怒りを叩きつけてこそ、僕は本音を吐き出せる。

 僕は無理やりハネコのリンク能力を引っ張り出すようにして、自宅の様子を探った。たった今、父さんが帰ってきたところだ。


 今に見てろよ、父さん。僕の本音を、心からの怒りを、堂々と叩きつけてやる。


         ※


 やはり天気予報は当たっていた。寒気の流入で、午後から雲が張り出してくるという。

 まるで今の僕の胸中を表しているようだ――などと、冷静な時分だったら考えられたかもしれない。


 だが、今の僕は『冷静』というわけにはいかなかった。心が暗雲に閉ざされ、陽光も差さない。まるで、急に夜中になってしまったかのようだ。

 しかも、それを異常だと考えるだけの理性もない。

 父さん、あなたが母さんと別れてから、そして仕事で多忙にしている間、僕がどれほど寂しかったか。その感情を思いっきりぶつけてやる。


 しかし、少しばかりの違和感があった。学校を出てから、ハネコの気配がしないのだ。水晶玉も熱を帯びてはいない。どうかしたのだろうか?

 いや、今は僕が、独力でどうにかしなければ。どうせハネコだって、僕を助けてくれるのは、あと一週間弱の間なのだ。


 ずんずんと歩を進める。その度に、どんどん空が暗くなる。

 僕はギリギリと歯を鳴らしながら、家の玄関前に立った。鍵は開いている。

 ドアを引き開けると、勢い余ってぐらついた。ふん、知ったことか。

 僕は廊下を闊歩し、どすどすと足を踏み鳴らすようにして階段を上っていく。

 そして、ノックもなしに父の自室へと踏み込んだ。


「父さん!」


 父は、まさに着替え終えたところだった。かっちりとした紺色の背広に、胸元と襟に階級章が光っている。


「どうした、優孝。騒がしいぞ。一体何が――」

「父さんはどうして母さんと別れたんだ!」


 その言葉に、父はぽかんと表情を緩ませた。しかしそれも一瞬のこと。父は制帽を被り、何事もなかったかのように、落ち着いた様子で僕を見つめ返す。


「繰り返すぞ、父さん! 父さんはどうして母さんを見捨てたんだ! 僕のことも考えずに!」

「何があったんだ、優孝。話なら次に私が帰った時に」

「駄目だ!」


 今度こそ、父は身を引いた。僕の言動に驚き、怯んだのかもしれない。


「父さん、気づかないのか? そうやって仕事ばかり優先するから、母さんは愛想を尽かしたんだ! 母さんも母さんだよ、父さんが国にとって重要な人だと知っていながら、結婚して僕を産んで、勝手に別れて……。僕は、子供はどうしろってんだよ!」


 振り返ってみれば、支離滅裂な言葉である。母はこの場にいないのだ。それなのに彼女に対する不平をぶちまけても、何の意味もない。


 それでも、僕は叫びたかった。訴えたかった。自分の心を引き留めることなしに。

 そこには最早、目的はない。ただ僕が喚き散らしているだけだ。

 善悪の概念もない。父の心も読めない。今後の見通しなど、立つはずもない。


 気づけば、僕は外に飛び出していた。小雨の降り始めた街路へと。


         ※


「優孝」

「……」

「優孝ってば」


 僕は目だけをそちらに向けた。


「何やってんの? ずぶ濡れじゃん」

「君には関係ない、愛奈」

「あんたが風邪引いたら大変でしょ?」


 ゆっくりと、しかし躊躇いなくこちらに近づいてくる。水色の傘が目に入った。

 すると、ぐいっとその手が差し出された。


「傘、入りなよ」

「構うな」

「えっ?」

「僕に構うなって言ったんだ!」


 アスファルトを削り取るような勢いで、僕は全身を振り向ける。

 しかし、それでも愛奈は怯まなかった。父とは大違いだ。


「お父さんのことで、何かあったんでしょ? 家に来なよ。強がらなくていいからさ」

「家……?」

「うん。父さんも母さんも歓迎するから」


 再び差し出される、水色の傘。

 僕はそっと手を伸ばし、把手を握り込んだ。愛奈の手を包むようにして。


「あっ」


 小さな驚きの声を上げる愛奈。


「怒鳴りつけて、ごめん」


 ぷいっと顔を逸らす愛奈。その表情は窺えなかったけれど、愛奈の手の温かさは確かだった。


         ※


 愛奈がどうしてもと言うので、僕は傘から手を離した。僕と一緒に傘を握っているのを、家族に見られたくはないらしい。


「ただいまー」

「こんにちは」


 声をかけると、短い廊下の突き当たりにある台所から、女性が顔を覗かせた。


「あら愛奈、今日は早かったのね! おかえりなさい」

「あ、お母さん、優孝連れてきちゃったけど、いいよね?」

「もちろん! あらあら優孝くん、久し振りね!」

「ど、どうも、おばさん」


 おずおずと頭を下げる僕に向かい、おばさんはにっこり微笑んだ。


「ってびしょ濡れじゃない、優孝くん! 愛奈、傘に入れてあげなかったの?」

「入れたよ! だからあたしも肩が濡れてるんじゃない!」

「ふふーん?」


 目を細め、唇の端を吊り上げるおばさん。


「な、何なの、お母さん?」

「いや? あんたもようやく優孝くんと相合傘ができる関係になったんだなあと思ってね」

「あっ……!」


 次の瞬間、愛奈は真っ赤になった。ぽすん、と煙突から煙が出るような擬音がする。


「ちょっ、やだ、何言ってんの、お母さん! あたしと優孝は相合傘なんて……」

「おう、帰ったか、愛奈。聞こえたぞ、優孝くんと仲がいいんだって?」

「お、お父さんまで……」


 がっくりと肩を落とす愛奈から目を逸らし、僕は愛奈の父親にも挨拶する。


「ご無沙汰してます、おじさん」

「いやいや! こちらこそ、うちの愛奈が世話になってばかりですまない! ってびしょ濡れじゃないか、優孝くん! お母さん、バスタオルを。私は風呂を沸かそう」

「ええ、そうね。ちょっと待ってて」


 僕という闖入者に対し、愛奈の両親はテキパキと対処してくれた。僕としては、恐縮しきりである。

 その時、気づいたことがある。色彩が失われていた僕の視界が、元に戻っていたのだ。古臭い言い方をすれば、『極彩色』と言うのだろうか。

 ハネコの気配は未だ感じられないが、僕自身は平常心に戻りつつあるらしい。

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