第22話【第五章】
【第五章】
今回は、意識を取り戻すのが早かった。
ハネコに叫ばれるまでもなく、僕は目をしばたいて顔を上げた。薬品臭く、金属臭い部屋。化学部室でのこと。
僕は部屋中央のテーブルに突っ伏するようにして気を失っていたようだ。同じテーブルには、秀平、愛奈、凛々子がいて、彼らもまた居眠りでもするかのように、腕に顔を埋めている。
少し身を乗り出すと、岳人先輩の姿もあった。相変わらず肘掛椅子の上で伸びている。
(ああ、コイツは居残りだ。てめえら四人の身体は、安全を確保できるように移動させておいた)
「そうか。ハネコ、ありがとう」
(ま、あたいらの事情に勝手に巻き込んじまったしな。わりぃわりぃ)
「いや……」
それよりも、僕には気にかけていることがある。
「ハネコ、愛奈の身に何があったんだ?」
(ちょっとした催眠術だ。後遺症はねえ。心配すんなよ、スケベ)
「ぐっ!」
僕は再び、腕に顔を埋めた。愛奈にキスする瞬間を想像してしまったことが、ハネコには読まれていたのだろう。
「本当に怖いよ、ハネコは……」
(お褒めに預かり光栄だね)
こんな遣り取りをしていると、間を置かずして秀平が身じろぎをした。愛奈も、凛々子も。
「皆、無事か?」
ちょっと喉につっかかるものを覚えつつ、僕は皆に声をかける。
「んあ……。俺たち、戻ったのか?」
「そうだよ、秀平。皆無事みたいだ」
秀平はすっと立ち上がり、背伸びをした。本当に昼寝でもしていたみたいだ。
あたりを見回して、何かに気づいたかのように固まる。そして転びかけながらも急いでテーブルを回り込んだ。
「凛々子、大丈夫か?」
「む……。秀平? あなた?」
「ああ、俺だ。無事みたいだな」
おっとりとした所作(っていつものことだが)で、凛々子が身体を起こす。その肩にそっと手を載せる秀平。
「わたくしたち、全員無事なんですの? 愛奈は?」
「心配ない。優孝、愛奈を起こしてやってくれ」
「あ、うん」
僕は無言で、愛奈の肩を揺すった。何故だ? どうしてこんなにドキドキする? 毎日会っている仲なのに。
僕が戸惑って愛奈の肩から手を離そうとした、その時。スパッ! と空を斬る勢いで何かが動いた。愛奈の手だった。僕の手をぎゅっと握りしめる。
「うわっ!」
「何悲鳴上げてんのよ、失礼ね」
「あ、愛奈……?」
がばり、と愛奈は上半身を上げた。その顔に浮かんでいたのは、不満げなしかめっ面。
「ちょっとねえ、優孝。あんた、どうしてあたしに声かけてくれなかったの?」
「え?」
「あたし、聞いてたんだから。あんたと秀平の会話」
「と、いうことは」
「でいっ!」
唐突に愛奈は立ち上がり、握っていた僕の腕を軽く捻った。
「いててててっ! 何すんだよ!」
「あたしだって女の子なんだからね! 目の前で秀平と凛々子がイチャついてたら、イラッとするわよ!」
「ご、ごめん! って、僕はどうすればよかったんだ?」
その言葉に、愛奈は大きくため息をついた。そんなことも察せられないのか、と文句を言われている気分になる。ううむ、僕の方から提案してみるか。
「じゃ、じゃあ、今からでもキスを」
「ぶふっ⁉」
愛奈は思いっきり噴き出した。
「ちょっ、あんた何考えてんの⁉ 気でも狂ったの⁉ あたしじゃなくてあんたが催眠術喰らったみたいね!」
「え? えっ?」
他二人の方を見ると、秀平も凛々子も沈黙していた。秀平は引き攣った笑みを浮かべ、凛々子は顔を真っ赤にして口を押えている。
僕にどうしろと? ハネコの方を見遣ると、殺人的な目で見返された。
「って、もう夜中じゃない! さっさと帰るよ、皆!」
「でしたらわたくしが、車を準備させますわ」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて――」
「逃げるな!」
再びバシッ! と空を斬って、愛奈の手が僕の腕に伸びた。
引っ張られつつも、僕は化学部室を振り返る。岳人先輩に目が留まったが、未だにだらしなく、その長い手足を投げ出して酔いつぶれていた。二晩も帰っていない、ということになるようだが大丈夫だろうか?
※
この日の帰宅時のこと。
「ほんっと、あんたって間が悪いよね」
「面目次第もございません……」
はぁ、と息をつきながら肩を上下させる愛奈。
そのため息は、桜の枝を揺らす春風と一緒に流れ去っていった。街灯に照らし出された桜の蕾は大きく膨れ上がっており、今目の前でぱっと咲いてもおかしくないくらい。
って、風景に見惚れている場合ではなく。
僕に向かって『間が悪い』とのたまう愛奈に対し、『じゃあどうすればよかったんだ?』と尋ね返したいのは山々だった。しかし、それでは訓練にならない。
ハネコを帰してやる目途がついたのだから、僕が独力で『相手を理解する』訓練をしておくべきだ。
今、それに取り組まなければ。そうでないと、相手の気持ちを理解するという過程を放棄するようで、何だか情けないじゃないか。
「ねえ、優孝」
「ん?」
愛奈は前を見つめたまま、やや俯きがちにこう言った。
「今、手を繋ぐくらいなら」
どくん、と心臓が跳ねた。
「あ、愛奈! 君こそ何を考えてるんだよ? 手を繋ぐって言ったって、小さい頃とはその、意味合いが違うっていうか……」
「きっ、キスよりはハードルが低いでしょ、馬鹿!」
「馬鹿はどっちだよ! 恥ずかしいことには変わりないよ!」
「じゃあさっき、秀平や凛々子の前でキスを迫ったのは恥ずかしくなかった、って言うの?」
「迫ってない! 提案しただけだ!」
「……」
再びため息をつく愛奈。しかし、今度は音がない。
「あ、愛奈?」
「あたし、あんたのこと好きだと思ったんだけどなあ……」
ポニーテールを軽く揺らし、目元に手を遣る。その表情を窺うことはできない。
「愛奈、あの――」
「ほら、あんたんち、ここでしょ」
「あ」
いつの間にか、僕の家の前に着いてしまった。
「君の家まで送るよ、愛奈。もう夜中だし、危ないかも」
「大丈夫だよ。身体の感覚は戻ってるし」
ふむ。愛奈が万全――とは言わずとも、六割方の力を取り戻していれば、犯罪に巻き込まれることはあるまい。痴漢も誘拐犯も返り討ちだ。
僕はどこか釈然としないものを感じつつ、家の玄関に立った。やはり、鍵は掛かったままだ。
「父さん、大丈夫かな……」
そう呟きながら、僕は鍵をドアノブに差し込んだ。
※
翌朝。
天気予報が当たった。この時期にしては珍しく、北風が吹き込んで寒くなるという予報だ。
桜が花開くのは、今日はお預けか。
僕は一旦仕舞い込んだマフラーを引っ張り出し、学ランの上から巻きつけて外に出た。
「ううっ、寒っ……」
手袋も出した方がよかったかな。
玄関の戸締りをして、足早に学校へ向けて歩き出す。そうして、早めに教室に到着したのが、緊急事態の原因になるとは。
教室に入ると、そこには女子生徒が一人。同じクラスであることは分かるのだが、まだ顔と名前が一致しない。
「あっ、おはよう、優孝くん」
「あ、ああ。おはよう」
立ち上がり、こちらを見据える女子。黒い長髪を背中に流し、眼鏡をかけている。
「あのっ、優孝くん」
「はい?」
「私、安藤忠子っていいます。渡辺さんから聞いたんだけど、優孝くん、占いができるって」
「はあ」
「もし迷惑でなかったら、私のことも占ってもらえませんか?」
そういうことか。やっぱり噂が広まるのは早いな。
「そういうことなら……えっと、安藤さん、こっちに」
僕は鞄を置いて、渡辺さんの相談に乗った時の空き教室へと安藤さんをいざなった。
こっそり自分のポケットに手を入れ、今の安藤さんの心理状態を測る。既に水晶玉の中で目覚めていたハネコが能力を発揮し、安藤さんのそばに感情バーが現れる。
「ん?」
「どうかしたの、優孝くん?」
「え? ああ、いや」
僕は内心、訝しんでいた。感情バーの色が、水色から紺色の間で移り変わっていたからだ。
長さもまた、波間に揺れる紙切れのように揺れている。
これは、不安の表れだ。何があったのだろう?
僕は不吉な感覚をかき分けて、何とか足を進めた。その一方で、恐ろしいと感じる気持ちもある。いつまでも空き教室に着かなければいいのに。
無論、そんな都合のいいことは起こらない。
僕が気づいた時には、僕と安藤さんは一つの机を挟んで向かい合い、椅子に腰を下ろしていた。
「優孝くん、私はどうすれば……?」
「あっ、じゃあ、何について悩んでいるのか教えてもらえるかい? それからぎゅっと目を閉じて、そのことに意識を集中して」
「はい」
安藤さんは実に素直だった。そして、その相談内容はやはり不吉なものだった。
「私の家で飼っている子犬が、いつの間にかいなくなっていて……。まだ産まれて半年なんです。きっとドアの隙間から逃げ出しちゃったんだと思うんだけど……」
「分かった。じゃあ、目を閉じて」
「はい」
安藤さんがぎゅっと目を閉じるのを確認してから、僕は水晶玉を握りしめた。
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