第15話

「なあハネコ、君はさっきから、僕の察しが悪いことに腹を立てているのか?」

(やっと気づいたのか……。もう引っ叩く気にもなれん)

「僕が他人の気持ちを汲むのが下手だから、あんなに怒ったのか?」

(……)

「教えてくれ、ハネコ、僕はこれからどうしたら――」

(うぎゃあああああああ!)


 ハネコが、吠えた。


(どうしてあたいがてめえをあんなに殴ったと思っていやがる? これからどうすべきなのかを、自分で考えさせるためだよ! それなのにてめぇときたら、あたいを質問責めにしやがる! ちっとは努力ってもんをしねえか、このアンポンタン!)


 流れ込んでくる、ハネコの怒気。しかし、僕自身がその勢いに呑まれる前に、脳内でカチン、と何かが弾けた。


「努力の仕方が分からないから困ってるんだろう!」


 はっとした。何を怒鳴っているんだ、僕は? 僕らしくもない。

 だが、今切ったばかりの啖呵に、嘘偽りはない。本当に、分からないんだ。


 他人の気持ちを理解する? 心理学書でも読めばいいのか? 恋愛ドラマでも観ればいいのか? それとも、こまめに相手の気持ちを尋ねて、統計を取ればいいのか?


 どうせ違うんだろう? 散々言われてきたさ、『そんな形式ばった考えをするから、お前は駄目なんだ』と。

 でも、分からないはずのものを、どう理解しろというんだ? 逆に僕の方が、そう言いつけてやりたい気分になる。いい加減にしやがれ。


(お、おい、優孝……?)


 この時、僕は初めてハネコの怯えた表情を目にした。

 怯えた、というのは言い過ぎかもしれない。だが少なくとも、逆ギレの怒りに呑まれた僕を前に、意表を突かれたのは確かなようだ。


 同時に僕の胸中は、強い後悔の念に満たされた。

 確かに僕は、弱くて卑怯で軽薄な人間かもしれない。だが、今ハネコの助力を失えば、初対面の人間が多くを占める高校という場で、パニックに陥りかねない。


「ごめん、ハネコ。ちょっと自制が効かなくなった」

(お、おう、そうみてえだな)


 僕は手の甲で、自分の額を拭った。嫌な汗が浮かんでいる。ふっ、と息をつくこと、約五秒。


「今日はもういいよ。少し掃除をしたら一人で何か食べて、風呂に入る。ハネコには、明日に備えて英気を養ってほしい」

(分かった)


 顔を上げられずにいる僕の前で、ハネコがするり、と水晶玉に戻る気配がした。

 僕はスマホを取り出し、誰かから連絡がないか確かめる。――なし。


 再びため息をつき、スマホをベッドの枕元に放り投げようとした、その時だった。

 メールの着信があった。


「地域防災ネットワーク……?」


 ああ、そう言えば、このスマホを買う時にダウンロードさせられたんだっけ。なになに……? 市内で防犯カメラの破壊相次ぐ、集団的犯行か、だって?


 不謹慎にも、僕は笑ってしまった。

 だってそうだろう? カメラと言ったって、人の心まで映してくれるわけじゃない。そんなものがいくら壊れたところで、なんの問題があるのだろう?


「やっぱり疲れてんのかな、僕」


 そう呟いて、僕は今度こそスマホを放り投げ、部屋を出た。

 掃除は明日でいいや。食欲もないし、もう寝よう。

 胸中で今日の予定を無理やり削りながら、僕はバスルームへ向かった。


         ※


 翌朝。

 僕は水晶玉をベッドに置き、自分は床に下りて正座をしていた。じっと水晶玉の内部、七色の光を発する中心部を見つめる。


「昨日は僕が悪かったよ、ハネコ。ごめん」


 膝に手を当て、肘を張るような形で頭を下げる。


(ふわ~あ、むにゃ……。んあ? 何だって?)

「って聞いてなかったのか⁉」

(馬鹿言え、冗談だよ。まあ確かに、あたいの見たところ、今のあんたを一人で登校させるのはどうかと思うわな。ただでさえ新しい環境なのに、これほど情緒不安定とあっては)

「分かるのかい?」

(ああ。鏡を見てみな)


 僕は足をずらし、箪笥に立て掛けられた姿見を見た。そこには僕と水晶玉から抜け出したハネコの姿。

 ハネコがぱちん、と指を鳴らすと、鏡の中の僕の横に、感情を表すバーが出現した。暗い藍色で、かなり長い。そして点滅している。僕の心臓の鼓動に連動しているようだ。

 それを見ただけで、僕は目眩を覚えた。


 しかし不思議と、『登校しない』という選択肢には現実味を感じなかった。

 ここで逃げ出したら一生逃げ続けることになるような気がした。逆に、既に愛奈、秀平、凛々子とは気軽に会話ができるという強みもある。


「何とか乗り切らなきゃな」


 そう言った僕の横で、ハネコが満足気に頷いた。


         ※


 僕が教室に入ると、先週よりはだいぶ和らいだ空気に満たされていた。雰囲気が軽くなったとも言える。皆それぞれに、友人としてのグループができつつあるのだろう。

 だが、油断はできない。僕は小中一貫校に通っている最中にさえ孤立してしまったのだ。このままどこかの友人グループに入れてもらえるとは限らない。


 いいや、考え過ぎることはない。教室の扉から、そっと室内を覗き込む。すると、ある二人組が諍いを起こしていた。


「もうっ! あなたは何度言ったら服装を改めますの、秀平!」

「そうだな、凛々子、今度の日曜、映画観に行こうぜ」

「話題を変えないで!」

「じゃあ、水族館?」

「ここからでは遠すぎますわ!」

「じゃあ、趣向を変えてショッピングモールにでも」

「まあ確かに、わたくしも夏に向けて服を――」


 おいおい凛々子、完全に秀平のペースに呑まれているぞ。

 そう思いつつ軽く肩を竦めると、凛々子と目が合った。


「あら、おはようございます! 優孝様!」

「おはよう、凛々子」


 片手を挙げて、凛々子に応じる。彼女の背後で秀平が『あちゃー』ってリアクションをしているが、今は対応を保留。


 考え過ぎることはない。そう思えたのには根拠がある。子猫盗難事件に関与したことで奮戦した四人組ができているから、ということだ。秀平、凛々子、そして幼馴染の愛奈。

 だいぶ安定した布陣に思えるのだけれど、どうだろう。それにしては、愛奈の姿が見えないな。


 わけを尋ねると、凛々子はやや顔を顰めつつ教えてくれた。


「愛奈さんでしたら、荷物を置いてさっさと部活の朝練の見学に行かれましたわ。全く、慌ただしい人ですこと!」

「そう、か」


 僕は何かを期待していた。愛奈に会えることを、だろうか。いや、事情は複雑だな。

 ハネコの『愛奈は僕を好いている』という言葉に、がっくんがっくんと胸が揺さぶられている。昨夜からずっとだ。


 僕はさり気なく凛々子から目を逸らし、周囲を見渡した。すっとズボンのポケットに手を入れ、水晶玉を握りしめる。するとたちまち、クラスメイトたちの顔の横に、色の付いたバーが現れた。オレンジ色が多い。緊張感と安堵感が一緒くたになっているようだ。

 しかし、僕は妙な気配に気づいた。


「ん? あれは……」


 薄紫色だ。何か心配事があるらしい。バーから本人に目を移すと、ちょうど目が合った。相手――丸眼鏡をかけたおかっぱの女子は、すぐに顔を背ける。たしか渡辺さん、だっただろうか。

 僕に用事か? いや、一言も喋ったこともないのに、それはないだろう。

 と、いう僕の推測は、見事に外れた。


 かたん、と軽い音を立てて、席を立つ渡辺さん。小さな歩幅で、教卓を迂回しながらこちらにやって来る。

 そして、左右に視線を遣ってから、僕に焦点を合わせた。


「あ、あの、優孝くん。私、渡辺真紀っていいます。ちょっとお話、いいですか?」


 僕は取り敢えず頷いた。それから再度、渡辺さんの感情バーを見る。

 相変わらず薄紫色だ。僕に危害を加える意図はないらしい。


「じゃ、じゃあ、ちょっと」


 とてとてと歩みを進める渡辺さん。僕は彼女に従って廊下に出た。

 きょろきょろと周辺を見渡した彼女は、一度深呼吸してこう切り出した。


「噂を聞いたんです。優孝くんが、占い師だって」

「はぁ……?」

「お礼はします。だから、私のことも、占ってもらえませんか?」


 もじもじと俯く渡辺さん。

 正直、わけが分からない。一体誰だ、そんな噂を流したのは? まあ、学校という閉鎖空間に少年少女が集められていれば、情報の回りも早いだろうけど。


「占い、ってほどでもないけど、人の心は見える、かな」

「じゃ、じゃあ……!」

「うん、もし僕で力になれれば」


 ふと時計を見ると、朝のホームルームまで時間がある。


「それじゃ、今聞いてもいいかい? 占ってほしい内容を」

「あっ、はい!」


 渡辺さんは、用意周到だった。僕に先だって歩いていくと、ちょうど空き教室があったのだ。

 場所と時間を把握し、僕のような赤の他人に頼ってまで解決しようとする悩み。

 一体何なのだろう?

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