第14話
僕の目の前にある、いかにも美味しそうな兎さんの林檎。だが一昨日、僕は愛奈が用意してくれた同じものを、食べなかった。単純に色が悪かった、という理由で。
その事実は、酷く僕の居心地を悪くした。だって愛奈は、いつ目覚めるか分からない……というのは言い過ぎかもしれないが、長い時間僕の目覚めを待って、林檎を手掛けてくれていたのだ。
その心遣いを、僕は無にしてしまったのではないだろうか? そしてそれは、今こうして笑い合っている幼馴染に対する背信的な行為ではないのか?
「優孝様」
「……」
「優孝様、いかがなさいましたか?」
「えっ、ああ……」
顔を上げると、凛々子が小皿に林檎を一切れ、取り分けてくれていた。爪楊枝が刺さっていて、その端を彼女が手にしている。そして僕と目を合わせると、さも当然といった風でこう言った。
「さあ、あ~ん」
語尾にハートマークが付きそうな、甘い声音と笑顔。一緒に差し出される、糖度の高そうな林檎。
僕は目の前のことを十分認識できないままに、『あ~ん』と口にしていた。一切れをいっぺんに口内に含む。
この期に及んで、僕はようやく周囲を見渡した。目の前には、天使のごとく微笑む凛々子。その背後では、林檎の載った大皿を手にした秀平に対し、愛奈が牽制の蹴りを放っていた。
この林檎、そんなに美味いのかな……。
しゃりしゃりと噛みしめながら、舌の上に移動する。うん、確かに美味しい。
美味しいけれど、そのせいで『あの林檎』はどんな味だったのかと余計に気になってしまう。病室で愛奈が差し出してくれた、茶色くて少し萎びた林檎だ。
「さあさあ、まだまだございますわ! どうぞ遠慮なく、あ~ん!」
僕は視線を、眼前の林檎に集中させた。向こうにいる愛奈と目を合わせてはならないと、脳内で警報が鳴っている。
あ~ん。しゃりしゃり。ごくり。
しばしの間、こんな遣り取りが繰り返された。愛奈に気づかれなかったことを祈ろう。
『凛々子に過保護にされる優孝』というものを、愛奈に見せたくなかった。それは恥ずかしいとか、情けないとかいう理由ではなく、愛奈の機嫌を損ねたくないという理由からだ。
では、さらに踏み込んで。
どうして僕は、愛奈の機嫌を損ねたくないのか?
「うーん、謎だな……」
「どうかなさいました、優孝様?」
「いっ、いや、何でもないよ」
僕がちょうど最後の一切れを口にした時だった。秀平が大皿に口を付けて、ざあっ、と残りの林檎を掻き込んだのは。
言うまでもないが、秀平は直後に生じた隙を突かれ、サングラスを割られることとなった。
※
それから僕たちは、カードゲームやテレビゲームに興じた。凛々子の家に格ゲーがある、というのは、なかなかシュールな事象ではあるまいか。まあ、楽しかったからいいのだけれど。
僕たちが凛々子の家(というより居城に近い)を辞したのは、午後五時を回った頃。夕日が実に鮮やかで、五分咲きの桜を橙色に染めていた。
凛々子は僕たちを車で送ると言い出したが、気持ちだけ受け取ることにした。
別れ際、凛々子が微笑みと共に、ジリジリと痛いほどの視線をくれたが……。あまり喜ばしくはないな、うん。
そして今、住んでいるアパートが反対側だという秀平と別れた僕と愛奈は、肩を並べて歩いている。
「ぷっ、ふふっ」
「どうしたの、愛奈?」
信号待ちをしている時のこと。愛奈がスマホを見下ろしながら笑っているのを見て、僕は尋ねた。
「優孝も見る? 秀平の間抜けな顔!」
ひょいっと覗き込む。そこに写されていたのは、しょげている秀平だった。サングラスの右側のレンズを割られている。顔が傷つかなかったのは不幸中の幸い、というか奇跡みたいなものだろう。
「そうだね。秀平、明日からどうするのかな」
「心配いらないわよ、同じ型のサングラス、いくつも持ってるって言ってたから」
『とんだ負け惜しみよね』――そう言いながらスマホを仕舞い、横断歩道を渡り出す愛奈。その時、僕は本能的に、こんな問いを投げていた。
「ねえ愛奈、君は秀平のことが好きなの?」
向かいの信号機のそばで、ぴたりと歩みを止める愛奈。それからゆっくりと振り返り、車の来ない車道越しに問い返してきた。
「どうしてそんなこと訊くの?」
僕は続く言葉を用意していた。『仲がよさそうだったから』とか、『不良撃退時の呼吸が合ってたから』とか。
しかし、そのいずれもが、僕の口から発せられることはなかった。
振り返った愛奈の笑顔が、あまりに綺麗だったから。
しかし、それは喜びの笑顔ではない。どこか悲しいような、虚しいような、切ないような、そんな感情から生まれた笑みだ。
いつもの愛奈の表情を太陽とするなら、今の愛奈はまさに月のようだった。
微かに口元を歪ませて、目線を落としてから、愛奈はこう叫んだ。
「優孝のばーーーーーーーか!」
すると、今度こそいつもの彼女らしい笑顔を浮かべ、愛奈は僕を置き去りにしてしまった。
「なっ……」
何だよ、いきなり『馬鹿』って。僕が馬鹿で鈍感なのは、愛奈だって分かってるだろうに。改めて、しかもあんな大声で言うことないじゃないか。
※
帰宅直後、それは始まった。
「ただいまー、って父さんは帰ってない、か。うぎゃっ⁉ いてててててて!」
(この間抜け、ドアホ、甲斐性なし! 何ボサッとしてんだよ、てめぇは!)
ハネコの能力について、僕は多くを知らない。一つだけ分かったのは、彼女の拳には攻撃判定が存在する、ということだ。
アニメでよく見かけるような、ぐるんぐるんと両腕をぶん回しての連続殴打。それが今、僕の後頭部に集中している。
「な、何を言ってるんだ、ハネコ⁉」
(あんなに美少女侍らせといて、告白もせんとはどういう了見じゃい!)
「は、はあっ⁉ とにかく落ち着いてくれ! 話をしよう!」
(あーっ、もうイライラするぁ! おら、とっとと自分の部屋に行け!)
「分かった! 分かったよ!」
僕は急き立てられ、まるでオオスズメバチに狙われているかのような思いで二階に上がった。
自室に入る頃になって、ハネコはようやく暴力を止めた。階段を上がっていく度に威力が増し、挙句蹴りまで入れてくるものだから、どうなることかと思ったが。
「で、何が何なんだよ?」
(それはこっちの台詞――はあ。いや、あたいの方から切り出した方がいいだろうな)
早速呆れ切った様子で、ふるふると頭を揺らすハネコ。こうして見ると、短髪の妖精って不思議だな。凶暴な妖精というのは、不思議を通り越して脅威だけれど。
(よく聞けよ、優孝。あたいは地球の生まれじゃねえが、だからこそ見えてくるものってのがある。この星に住まう動物たちの感情や感覚を察したり、逆探知したりしてな。余計な先入観がねえからできる芸当だが)
「あ、ああ」
(そこでだ。あー……)
「ん? どうしたんだよ。突然歯切れが悪くなったみたいじゃないか」
(まあ、てめぇにも分かってる範囲から話すぞ。塔野凛々子。あいつはお前にぞっこんだ)
「ッ!」
胸を強打されたかのような感覚。思わずうずくまると、勢いよく、べちん! と額を叩かれた。
「何を言いだすんだよ、ハネコ! おでこも痛いし」
(気づいてるだろう? 口先だけで騒いでるわけじゃねえんだ。あの子は、お前のために退院を待ち望んで、自宅にも招いて、手料理まで振る舞った。まあ、二人っきりってわけじゃなかったが、それでも真剣に、あの子はお前に恋してる)
「何で僕なんかに……?」
(それはてめえで考えやがれ)
空中で器用に羽を動かし、滞空しながら足を組むハネコ。
しばしの沈黙の後、すっと小さなため息をついて、ハネコは足を解いた。
(もう言うしかねえか……。豊崎愛奈、な。あの子も、お前のことが好きなんだ)
僕は再び、胸を打たれる感覚に陥った。
それだけではない。喉の奥から上半身全体にかけて、ぎゅっと圧迫されるような感じに囚われている。
この感情は何だ? 今まであまり、僕が抱いたことのないものだが。
そう考えてみると、ふと、いくつかの単語が脳裏に浮かんできた。
怖さ、悔しさ、敗北感。
待て待て。考えろ。考えるんだ、優孝。この三つの単語は、それぞれ何を意味しているんだ?
『怖さ』は、唐突に好意を向けられていることを知らされた『驚き』に近いものがある。
『悔しさ』は、どうして気づいてあげられなかったのかという『後悔』だ。
『敗北感』。これは――。
(悔しいか、優孝? あたいに負けて悔しいだろ? あたいの能力を以てすれば、愛奈の気持ちは丸見えだ。それなのに、幼馴染のてめえときたら、アイツを『親切な異性の友達』としか見ていねえ。こりゃあ、傍から見てたらぶん殴りたくもなるってぇもんよ)
そうか。これが『敗北感』なのか。
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