第11話

 怖い。それはそれは怖い。だが、僕の胸中には、子猫を救わねばならないという使命感が生まれていた。


 この子猫の脳とリンクした時、猫としての同類から温かく接せられたという記憶が散見された。

 あれは何者だったのだろう? 親の猫だろうか。兄弟姉妹だろうか。あるいは、血縁関係はなくとも、自分のことを思いやってくれる他者、他動物、それこそ凛々子の気配か。


 そうなれば、分かることは一つ。この子猫には、帰るべき場所があるということだ。

 だったら、絶対に凛々子の下へ帰してやらなければ。


 不良の視線で威圧され、引き下がりそうになるスニーカーの踵をぎゅっとアスファルトに押し付ける。目は逸らさない。じっと、リーダー格と思しき不良の瞳を睨み続ける。


 すると、唐突にリーダーが指を鳴らした。ぱちん、という響きが、狭いトンネルの中を跳ね回る。

 これが合図だったのだろう、他三人は、子猫の入れられた段ボール箱からゆっくりと離れた。


「おい中坊、お前、この猫を取り返しにきたのか?」


 ぐっと唾を飲み、首肯する。


「あーあ、とんだ邪魔が入っちまったぜ。そら、持って行きな。とっとと持ち主に帰しちまえ」

「えっ……」


 僕は呆気に取られた。こんなにもあっさり、不良たちが諦めるとは思っていなかったのだ。

 リーダーまでもが、段ボール箱から二、三歩と遠ざかる。

 よし、今なら子猫を助けられる! 万事解決だ!


 僕の恐怖心は一瞬で消し飛び、子猫の下に駆け寄った。それが、大いなる油断であったことも知らずに。


「おい、大丈夫だったか? 怪我はないか? よしよし、すぐに凛々子のところへ帰して――」

(避けろ、優孝!)

「ん?」


 安堵感のせいで、ハネコの警告に対する反応が大幅に遅れた。

 振り返った僕の眼前にあったもの。それは、リーダーの靴裏だった。

 思いっきり膝の関節をバネにして放たれた蹴り。それは過たず、僕の鼻先を直撃した。


「ぐぶっ!」


 一瞬で鼻呼吸ができなくなり、僅かに鮮血が宙を舞う。鉄臭さが鼻腔をこれでもかと満たし、僕は尻餅をつきながら無様に鼻を押さえた。


「バッカじゃねえの? 俺たちが本気でその猫を返すと思ったのかよ? 四対一だぜ? しかもここは人通りが少ねえし、邪魔も入らねえだろな。てめえをフルボッコにしてやっても」


 もはや、機嫌・感情を表すバーを頼るまでもなかった。

 こいつらの心は、真っ黒だ。全員の顔に、嗜虐的な笑みが浮かんでいる。今更ながら、僕は命の危険を感じた。


「ケッ! 正義の味方なんか気取るからだぜ、坊主!」

「俺たちだって、こうやって食い繋いでんだ! 邪魔したのが悪いんだぜ!」

「おうよ! 黙って見てりゃ見逃してやったのによ!」


 そんな言葉が投げかけられる。同時に、四人分の蹴りが、僕の全身を打った。

 額、肩、胸、腹、上腕。どこに当たろうがお構いなし。情け容赦もなし。


 しかし、それでも僕は子猫を庇い続けた。

 こいつらが子猫に傷を負わせるとは考えにくい。しかし、そんな物理的な話ではない。

 僕は、両親の離婚という自らの境遇を、仲間から引き離された子猫に重ね合わせていた。


「お……お前ら、なんかに……。家族がバラバラに、される、ような……寂しさが分かってたまるか!」


 僕は切れた唇からの出血を拭いもせず、そう声を上げた。


「ああん? まだ蹴られ足りねえってか?」

「だったら満足するまで付き合ってやる、よっ!」


 ちらりと、僕の顎先を狙うリーダーのブーツの爪先が見えた。

 これを喰らったら、僕は死ぬ……ことはなくとも、間違いなく意識は失ってしまうだろう。ここまでか。


 さっと空を斬る擦過音。固い衝突音。痛みの感覚すらない。


 しかし。

 いつまで経っても、僕の意識は保たれていた。頭蓋に生じるであろう衝撃もやって来ない。何事だろうか。

 薄っすらと目を開ける。そこに立っていたのは、不良四人組のリーダーではなく――。


「……てめぇら、よくも俺のダチに手を出しやがったな……」

「う、あ……」

「黙ってろ優孝。この畜生共は、俺たちで片づける」


 僕が顔を上げると、ボクシングのポーズをきっちり決めた秀平がいた。相手のリーダーはと言えば、僕を挟んだ反対側で見事に伸びていた。左頬には、拳のめり込んだような痕がある。


「なっ、何だてめえ!」


 残りの三人は、ポケットに手を遣った。取り出されたのは、刃を格納できるタイプの小振りのナイフだ。


「しっ、死にたくなかったら、お、おお俺たちを見逃せ!」

「ああ。俺は構わねえ。だが、あっちのお嬢さんが何て言うかな?」

「へ?」


 間抜けな声を上げる不良。彼が振り返った先には、満面の笑みを浮かべた愛奈が立っていた。指の関節をパキポキ鳴らしながら。


 不良、残り三人。彼らは三馬鹿トリオよろしく、愛奈を見て、秀平を見て、再び愛奈を見た。そして、だっと愛奈の方へ駆け出した。よっぽど秀平が恐ろしかったのか。


「どけや、このアマあああああ!」


 げしっ。


「ぎゃあああああ!」


 からん、とナイフが地面に落ちる。そちらを見ると、愛奈の身体がくるりと一回転していた。

 回し蹴り。愛奈の代名詞と言ってもいい得意技だ。スカートでやってほしくはなかったけれど。いずれにせよ、腹部を押さえた不良が一人、無様に仰向けに倒れ込んだ。


 残り二人。彼らは互いの背をつけ、震える手でナイフを握りながら、視線を定められずにいる。


「てめえらを警察に突き出す。無傷でな。それが嫌なら、多少怪我をしてもらうことになっちまうが、ま、お任せするぜ」


 しばしの沈黙。すると偶然だろうか、二人の不良は同時に駆け出した。一人は秀平に、一人は愛奈に。


「死ねやぁ!」


 まず気を失ったのは秀平に向かった方の不良だった。

 ナイフを持った右腕は、屈みこんだ秀平に軽くその先端を逸らされる。易々と懐に入った秀平は、強烈なアッパーを不良の腹部に叩き込んだ。


「おっと!」


 秀平がわきにどけると、不良は無様に嘔吐しながら、自らの吐瀉物の上にぶっ倒れた。


 続いて、愛奈に向かった不良。

 愛奈は身体の型を、空手から柔道へと巧みに切り替え、これを迎撃する。

 勢いが災いし、不良は自らの勢いで愛奈に投げ飛ばされた。綺麗な背負い投げだ。


「げはっ!」


 愛奈はすかさず、不良の右手を踏みにじる。ぎゃっ、という短い悲鳴と共に、不良はうずくまった。ハネコの力を借りてみたが、戦意が完全に消失しているのが分かった。


「やったな、愛奈」

「あんたもやるわね、秀平」


 無傷の二人は歩み寄り、軽くハイタッチを決めた。

 ん? 待てよ。この心のモヤモヤは何だろう。友人同士が仲良くなるのはいいことであるはずなのに。


「凛々子、もう大丈夫よ!」


 愛奈が振り返る。その先に、凛々子が肩を縮めて立っていた。トンネルの端からこちらを覗いていたようだ。秀平も頷いてみせる。

 ぱっと目を見開き、駆け寄ってくる凛々子。


「凛々子、猫は無事だよ、ほら――」


 どうにか立ち上がり、そっと段ボール箱を押しやる僕。結局、活躍なんてできなかったなあ。少し寂しいような気がする。


 思いがけない事態が発生したのは、次の瞬間だった。


「ああ、ご無事ですか、優孝様!」

「え?」


 そう言って、凛々子は僕に抱き着いてきた。猫じゃなくて、ぼ、僕?

 僕は金縛りに遭った。秀平は凍り付いた。愛奈に至っては、がっくりと膝を着いている。


「今車を用意しますわ! 病院へ参りましょう!」


 誰も何も言えないのをいいことに、凛々子はスマホで通話を開始。それから三分と待たずに、黒塗りの高級車がやって来た。パトカーよりも早い。

 

「やっぱすげーなー、お嬢様」

 

 そう呟く秀平。愛奈は何やら、敗北感を覚えている様子だ。青いバーがずずずっ、と伸びている。

 気まずい思いでいる僕を知ってか知らずか、凛々子は子猫と戯れていた。

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