第5話
※
「ただいま~……」
ぐったりしながら、玄関のドアノブに手をかける。しかし、ノブはかちり、と鈍い音を立てるだけ。
「そっか、父さん今いないんだ」
ポケットから家の鍵を取り出し、開錠する。案の定、家の中は薄暗く、ひとけがなかった。
無言で暗がりを見つめるが、何にも出て来やしない。
片峰家は、ちょうど僕が通っていた小中一貫校と桜滝高校の中間地点に位置しており、駅や中心市街地へのアクセスも良好だ。新興住宅地としての色合いも強く、また、学生街としての一面も有している。
家の造りは二階建てで、今は僕と父が暮らしており、やや広すぎる感があった。
「それなのに、僕一人で過ごす、っていうのもなあ……」
兄弟姉妹でもいれば状況は違ったのだろうが、僕は一人っ子。父が家を空けていることも多いので、家事全般は僕が担当している。まあ、自分のことを自分でやれば済んでしまう、と言ってしまえばそれまでだけれど。
しかし、今日という一日を振り返ってみると、概して悪くはなかった、いや、極めて順調だったというべきだろう。
不良オーラを発散しまくっている風戸秀平や、規律絶対主義を掲げる塔野凛々子とも話ができた。恐らく、我が一年五組ではこの二人が台風の目になるだろうから、今の内に彼ら、とりわけ秀平と和平条約(?)を結べたのは僥倖だ。
凛々子が何を考えて愛奈に挑戦しているのかは計りかねるところだが。
僕は、夕日が差し込む自室の窓辺でぼんやり空を眺めてから、もそもそと制服から脱皮。部屋着に着替え、夕飯は何にしようかと考える。我ながら清々しい気分だ。
「久々に一人焼肉でもしようかな……」
一番星を見つめながら、呟く。と、その時だった。
「んっ?」
何か白い物体が、夕焼け空を横切った。何だ、あれ?
飛行機にしては速すぎるし、地理的に人工衛星が見える角度でもない。
「気のせいかな」
僕は手の甲で目を軽く擦り、夕飯の支度に取り掛かった。
※
父が帰宅したのは、午後九時を過ぎた頃だった。
「あっ、父さん! お帰りなさい!」
「おう」
父は肩幅も上背もあるがっちりした人物で、息子である僕とは対照的だ。
僕は母からの遺伝要素が強いのだろうか?
ああ、いや、考えるまい。僕と父の間では、母の話はしないという暗黙のルールが設けられている。
「父さん、焼肉あるんだけど――」
「すまんな、優孝。すぐに発たねばならん」
父は分厚い眼鏡の蔓を押し上げた。
「そ、そうなんだ」
父は無言。何だか冷たい人物に見えるかもしないが、僕はとっくに慣れっこだ。
このぶんでは、明日の入学式に参列するのも絶望的だろう。正直、寂しいという思いはあったが、父を困らせてはなるまい。僕は無言を通すことにした。
父が玄関で僕に背を向け、ドアノブに触れようとしたその時だった。
スマホの着信音が鳴り響いた。父の上着からだ。
「こちら片峰穂高二等空佐。うむ、その件だが、捕捉できたか? ……やはりな。徐々に東に動いている、ということか。了解。今から市ヶ谷の防衛省へ向かう。その物体の飛行経路をチャートにまとめておいてくれ。以上」
「父さん、あの」
「すまんな、優孝。今の会話は他言無用だ。忘れてくれ」
それは分かっている。いや、内容はさっぱりだが、安易に他人に語るべき案件ではない、ということは承知している。父との会話は、五、六割がそんなものだ。
父は、航空自衛隊の高官である。国を守っているのだから、多忙なのは仕方ないし、そのしわ寄せは息子として、家族として受け止めねばなるまい。
でも、少しくらい僕の話を聞いてほしかった。これだっていつものことだけれど。
「では、行ってくる。帰りの時刻は分からん。苦労を掛けるな、優孝」
「う、ううん、大丈夫。いってらっしゃい」
父はぐっと頷いて、玄関扉を押し開け、出て行った。
緊張の糸が切れた僕は、盛大なため息をついて、キッチンでの食器洗いに戻った。
その日の午後十一時。予習をしていた僕の横で、スマホが鳴った。LINEの着信だ。発信者は『風戸秀平』とある。
内容を見てみると、これからよろしく! ――などという愛想はなく、単純に『塔野凛々子の情報収集に協力頼む!』とだけあった。
秀平とは今日が初対面だったが、何故か『彼らしいな』という感慨が湧き上がってくる。
頼りにされるのは、悪い気分ではない。だが、秀平が言うほど、僕に科せられた任務は軽いものではあるまい。
まずは凛々子と継続的に会話できるようにすべき。しかしながら、彼女は愛奈と『決闘中』である。愛奈や、愛奈の友人のつてを頼って情報を仕入れるのは困難だろう。
僕は勉強道具をわきに置いて、机に両肘を着いた。その上で指を組み、黙考すること二十分。早速僕は、途方に暮れた。
「他人の情報の入手経路なんて、考えつかないや……」
ぱっと見で他人の心を読めるような、何某かの能力があればいいのだが。いや、現実なんて、そんな単純にはできていないだろう。
はてさて、弱ったぞ。
今日の懇親会を経て、早速秀平はクラスの中央人物になりつつある。そんな彼の機嫌を損ねたら、僕はぼっちに逆戻りだ。
せっかく『友人への扉』が開いたと思ったのに。
後頭部を掻きながら、だんだん落ち込んでいく自分の姿を想像する。
一体何をどうしたらいいのやら。そんな僕を追撃するように、再びスマホがLINEのメッセージ着信音を発した。
「愛奈から?」
何事だろうか。何か伝えたいことがあるなら、別に明日教室で、ということでもよかろうに。
眉根に皺を寄せながら、ゆっくりと文章を読み込む。そして読み終えた時には、僕は全身から出る冷や汗に対処しきれなくなっていた。
愛奈曰く。
あまりに印象的だった自己紹介のこと。
愛奈と凛々子の決闘の中心人物になったこと。
そして、一見不良な秀平と仲が良くなったこと。
これら三点によって、僕は意外なほどクラスメイトたちの注目を浴びることになってしまったらしい。
要するに、愛奈が言いたいのは『自重しろ』ということだ。
「僕だって目立ちたくなんかないんだよおぉお!」
がっくりと肩を落とす。
僕の理想は、取り立てて何事もなく、平穏な高校生活を送ること。それが今、大いに脅かされている。
全く、面倒なことになってしまった。先ほどまでの微かな高揚感は、既に焦燥感に切り替わっている。一体全体、僕に何をどうしろと言うんだ? もう勘弁してくれ。一日で(しかも入学式前に)音を上げるのもどうかと思いはするが。
いや、何か突破口はあるはずだ。それを見つけ、実行しなければ。さもなければ、僕は再びぼっちになって、心理的安全保障に問題が生じる。
そんな文面を脳内で構築して、一つ気づいたことがある。
これは、試練だ。自分が人と安全な距離を取るには、危険域にギリギリまで接近を強いられても文句は言えまい。
では、何が必要だろうか?
今の僕に足りないもの。そして、今回の二つの案件、すなわち『秀平の手助け』と『静かな高校生活』を解決できるもの。
僕は必死で知恵を絞った。
その『知恵』というものが厄介である。『知識』、すなわち覚えたり練習したりすれば得られるものとは、似て非なるものだ。『人の心』なんて得体の知れないものを相手にするのだから、必要なのは『知識』ではなく『知恵』の方だろう。
結論としては、僕のような鈍感な一高校生が『人の心』を読めるよう成長すればいいのではないか、ということだ。
「……無理だな」
僕は椅子を下り、膝を軽く屈伸させて、ベッドに大の字に横たわった。
仰向けに寝そべって、額に手を載せる。今日何度目かの長いため息をついて、僕は目を閉じた。
しばらくそうしていると、明日からの高校生活に暗雲が立ち込めてくるのが感じられた。
結局、僕はぼっちなのか。あのクラスの雰囲気からして、いじめの対象にはならないだろうとは思う。
しかし、『愛の反対は憎悪ではなく、無関心である』という格言(のようなもの)も存在する。
いじめられたいわけじゃない。ぼっちでもいたくない――というのは贅沢だろうか? わがままだろうか? そもそも僕は、どうしてこんな内気な性格になってしまったのか。
「こうなったら」
僕は立ち上がり、机に向かった。小学校の頃から使っている、多機能デスクだ。キャスター付きの棚を引っ張り出し、中身を漁る。
僕は『何か』を探していた。『何か』が何なのか、それは自分でもよく分かっていない。
ただ、お守りのようなものが欲しかった。不安を紛らわせてくれる何か。
そんな時、『それ』が転がり出てきたのは、はたして偶然だろうか。
「これって……」
僕は『それ』を摘まみ上げた。ああ、そうだ。五年前の夏に、僕を直撃したビー玉、というかごく小さめの水晶玉のようなものだ。
視線の高さに持ち上げてみると、内側から不思議な七色の光が湧き出しているようにも見えた。
よし、これにしよう。僕はその水晶玉を制服のズボンのポケットに突っ込んだ。
ぱんぱんと自分の両手を打ち合わせ、一言。
「お風呂、入ろうかな」
それから先はルーティン通りで、さして記憶には残らなかった。
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