第4話

 そして間もなく、僕の名が呼ばれた。僕は一呼吸置いてから、明瞭な声で『はい!』と返事をする。

 そして、語り出した。


「片峰優孝と申します! 是非気軽に話しかけてください! コテンパンにしてあげます!」


 ……あれ? 今、僕は何と言った? 何故皆が沈黙している? 何が起こっているんだ?

 暑くもないのに、だらり、と嫌な汗がこめかみから頬を滑っていく。

 

 このどろどろとした沈黙を破ったのは、担任教諭だった。


「え、えーっと、片峰くん、あの、元気なのはいいんだけど、暴力沙汰はあんまり起こさないでね?」


 引き攣った営業スマイルで告げる教諭。彼女から目を逸らし、周囲を見渡すと、二十五対すなわち五十個の眼球が僕を捕捉していた。まるで珍奇な動物を見るような色で。

 右側で、何かが動いた。ゆっくり顔を向けると、秀平が口からぺんぺん草を落とすところだった。まさに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔である。

 左側でも何かの気配。鬼の気配だ。振り返ると、案の定三つ編みの女子生徒がオーラを奮い立たせていた。自分のクラスでのトラブルを起こすことは許さない。雰囲気だけで、そう雄弁に語っている。


「じゃ、じゃあ、次の人! 自己紹介いってみよう!」


 その教諭の言葉を最後に、僕の記憶はしばし跳ぶことになった。


         ※


「優孝!」

「……」

「優孝ってば! 聞こえてる?」

「……はっ!」

「何驚いてんの? 驚いたのはこっちよ。全くもう」


 先ほどから僕の前に立った女子生徒、豊崎愛奈は、呆れた様子で腰に手を当てている。


 僕は慌てて周囲を見回した。皆、雑談に興じている。どうやら今日のカリキュラムは終了したらしい。

 類は友を呼ぶとはよく言ったもので、既にクラス内では派閥ができつつあった。


 工学系の話題で熱弁を振るい合う者たち。

 好きな文学作品を暗唱し合う者たち。

 中学時代の自分の活躍を語るスポーツ系の者たち。


 プラスアルファで、ぼっちの僕だ。


「ぼ、僕は、一体……?」

「え? まさかあんた、自分が言ったこと覚えてないの?」

「うん」

「かはあぁあ……」


 愛奈は頭を抱えた。


「あんた、こう言ったんだよ? 『俺に声かけるような奴は、問答無用でぶっ飛ばす!』って」

「嘘ぉ⁉」

「本当! でなきゃ、あたしがこんなに焦ってるわけないでしょうが!」


 僕は自分の膝がかたかた震えだすのを感じた。

 声をかけたらぶっ飛ばす? そんな、それじゃあ『声をかけるな』と言っているのと同義じゃないか。しかも、実際僕にそれほどの腕力はない。あ、それはむしろいいことなのか。


「あーもう!」


 すると突然、愛奈は僕の襟首を掴み、椅子から引っ張り上げた。


「どわっ⁉」

「皆さん! さっきのコイツの自己紹介、全部冗談ですからね! あんな笑えない冗談聞いたことないかもしれませんけど、嘘です! ハッタリです! 虚偽報告です! 気にしないでください!」


 今度は、全員の視線は愛奈に集中していた。よくもまあこれだけ喋れるものだと感心した直後、ぱっと手を離され、俺はそのまま、すとんと着席する形になった。


「全く、腐れ縁とはいえ、高校生にまでなって何やらせんのよ、それも幼馴染に!」

「す、すいませぇん……」

「あら? わたくしにはなかなか面白い見世物でしたけれど? とっても刺激的で、勇猛果敢で、素敵な殿方だと思いましたわ」


 突然の言葉の乱入。左側から。ということは、声の主はあの鬼女子か。

 乱暴に僕の襟首から手を離し、振り向く愛奈。


「それをこんなに乱暴にするなんて……。豊崎さん、と仰いましたか? あなたもなかなか不埒ものですわね」

「なっ!」


 愛奈は一瞬フリーズしたが、すぐに言葉を返し始めた。


「見ていられなかったのよ! この幼馴染、ずっとこんな調子なんだもの! あなたに口出しされる覚えはないわ、塔野凛々子さん!」


 そうか。この鬼女子は、塔野凛々子というのか。


「幼馴染? ほほう、面白いお立場にいらっしゃるのね、お二人は。それなら――」

「それなら?」

「決闘と参りましょう、豊崎愛奈さん? 片峰優孝さんのお心を賭けて!」

「は、はあっ⁉」


 一番驚いたのは、間違いなく僕だろう。先ほど以上のパニックの渦に呑まれていく。

 何だ? 何が起こってるんだ? 僕の心を賭けて決闘、だなんて!


 クラス中の目が、今度は女子二人に注がれる。静かに呼吸をと整える両者。まさか、ここで戦うつもりなのか? 冗談じゃない、それこそ生徒心得に反するのでは――。

 僕が声を上げかけた、その時だった。


「おいおい止めねえか、お嬢さん方」


 素早い身のこなしで仲裁に入った人物がいる。秀平だ。


「生憎、『タカミネ』は俺と先約があるんだ。な?」

「え、えっ?」


 ぱちん、とサングラス越しにウィンクされ、僕はつい首を縦に振ってしまった。ぶんぶんと高速で。


「ねーねー、風戸くん、まだー?」

「悪い悪い、ちょい待ち。さ、行こうぜ、『タカミネ』。ちょっとした懇親会だ」


 そう言って、教室出口の方に応じる秀平。しかし、懇親会? 個人的には、愛奈を除き誰とも話していないのだが。


「お嬢さん方も、喧嘩する前にさっさと友達でも作りな。置いてかれるぜ」


 そう言うと、秀平は愛奈と凛々子、二人の額に軽く手を当てた。軽く力を込め、互いを遠ざけさせる。


「よーし、喧嘩両成敗! 行くぜ、『タカミネ』!」

「あっ、う、うん!」


 僕は慌てて鞄を取って、秀平の後に続いた。僕の名字は『カタミネ』なのだが……。まあ、後で修正してもらおう。

 それより、気になったのは。残された女子二人がどんな顔をしていたのか、ということだ。想像もつかなかったけれど。


         ※


「それでインターハイに出場? 凄いね!」

「いやいや、数学オリンピックの銀メダル受賞者に言われたくはないよ」

「ご謙遜、ご謙遜!」


 僕は、秀平に連れられて五、六人のグループへと合流し、ファーストフード店でアイスコーヒーをすすっていた。もちろん席は端の方だ、と言いたかった。だが、秀平に廊下側から押される形で、長めのソファの真ん中あたりに陣取ることになってしまった。


「ねえねえ優孝くん!」

「はっ、はいぃい!」

「優孝くんも、何か格闘技とか習ってたの?」

「まっ、まさか! 僕みたいな臆病者、喧嘩だってしたことないよ」


 せっかく話しかけてくれた女子には申し訳ない。だが、ここで嘘をついたら余計に会話が難しくなり、ひいては皆からの信頼を裏切ることになりかねない。だから正直に答えた。

 すると、その隣の女子が、けらけらと笑い声を上げた。


「優孝くんが本当に格闘技なんかやってるわけないよ! 何だか気弱そうだし」


 普通の男子なら傷つくのだろうか? 初対面の女子に『気弱だ』などと言われたら。

 しかし、僕は逆だ。既に伝えた通り、僕は喧嘩だってしたことがない。どうせ弱いのだから、ここは正直に全て話してしまうに限る。


 すると、緊張感が和らいだからか、急にトイレに行きたくなった。


「秀平くん、ちょっとどいてもらっていい? 僕、トイレに」

「おう、奇遇だな。俺も行こうと思ってたんだ」


 少しばかりの安堵感を得つつ、僕は秀平と連れ立ってトイレに入った。

 用を足して手を洗っていると、秀平も隣の洗面台で手を洗い始めた。


「やべえ。惚れたぜ」

「ぶふっ⁉」


 ほ、惚れた? 惚れたって? そんな、僕は異性愛者だぞ。残念だが、秀平を恋愛対象には見られない。だが、秀平の言葉は続く。


「塔野凛々子、って言ったよな? いやあ、惚れたわ~」


 なるほど、秀平も異性愛者ではあるわけだ。でも『惚れたわ~』って何だよ、『惚れたわ~』って。

 僕が水を出しっぱなしで呆然としていると、秀平は何食わぬ顔で言葉を続けた。


「俺さ、こんな格好じゃん? ちょいワル系じゃなくて、完全にダークサイドに落ちてるよな」

「そ、そこまでは思わなくても……」


 しかし、丁寧に手をハンカチで拭きながら、秀平はかぶりを振った。


「まあ、俺にもいろいろと思うところがあるわけさ。だからこんな格好なんだが、あの女、ビビらないだけならまだしも、俺に服装の口頭注意と来たもんだ。大した度胸だぜ。実際、胸もあったしな」


 って、行きつく先は結局そこかい。

 

「あ、『タカミネ』、じゃなくて、『カタミネ』?」

「面倒なら下の名前で、優孝って呼んでくれていいよ」

「じゃあ、優孝。中継ぎ頼むわ」

「うん。……はい?」

「だってさ、お前、ちょうど俺と凛々子に挟まれてるだろ? 座席が」

「ま、まあね」

「頼む!」


 秀平はこちらに向き直り、深々と頭を下げた。


「凛々子の趣味とか誕生日とか得意分野とか、いろいろ下調べってもんがあるだろう? 手伝ってくれねえか?」

「む……」


 コミュ障の僕にそれを言うか。しかし、秀平が根はいい奴だということは実感できた。声をかけてくれただけでも有難い。断るわけにはいかないだろうな。


「僕にできることだったら、協力するよ。もし僕なんかでよかったら」

「うおおおお! 感謝するぜ、優孝! よろしく!」


 秀平はスキップしながらトイレを出ていった。残されたのは僕と、その血色の悪い顔を映した鏡だけだった。

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