第2話【第一章】
【第一章】
早起きには慣れている。父の仕事柄、厳しく躾けられたということもあり、時間にはうるさい方だ。
と、いうのは建前。僕が時間厳守を貫いている主な理由。それは、時間という『数値化できるもの』に対して真摯でありたい、という気持ちがあるからだ。
では何故、『数値化できるもの』に固執するのか。
小さい頃から、周囲に言われ続けてきたことが原因である。
彼ら曰く、
『お前は他人の気持ちが分からないのか』
『少しは空気を読むべきじゃないのか』
『人の心というものを汲み取る努力をしたらどうだ』
「……分かんないよ、そんなこと」
僕は布団の中で呟いた。
そう言えば、久し振りに夢を見たな。あれは、流れ星(らしきもの)に頭を打たれ、病院に担ぎ込まれた日のことだったか。
それはそうと、今日もまた僕は早くに覚醒してしまった。何時だろう? 枕元の置時計を手に取り、その発光デジタル表示を見遣る。
「む……んんっ⁉」
やや曖昧だった意識が、一気に鮮明になる。午前三時、とな……? これはまた、大層な早起きをしてしまったものである。いつもは午前五時ジャストに起きるのだが。
何だ? 何があった? 今日は一体、何の日だ?
時計を置いて、掛布団を吹っ飛ばす。六畳一間の自室を見渡す。そして、廊下に繋がるドアのわきに掛けられているものを見て、納得した。
そこにあったのは、真新しい黒の学ランである。
そうだ。今日は高校の入学式だ。昨夜、『明日が来ませんように』と祈りながら布団にくるまったことを思い出す。
今日から、全く新しい環境が僕の生活圏となるのだ。緊張するなと言う方がどうかしている。少なくとも、僕のような小心者に対しては、大いなる脅威と言っていい。
僕はゆっくりと床に足を着き、じりじりと歩みを進めて学ランのボタンを見た。そこには確かに『桜滝』の二文字。それは僕が、今日から国立桜滝高等学校に通うことになるのだと刻銘に訴えていた。
この高校は、全国的に見ても珍しいほどの超エリート校である。高校という位置づけながらも、大学さながらの研究設備や情報集積能力を有し、文系・理系問わず『将来の日本を背負う人材育成』を掲げている機関だ。
僕は先月、その入学試験を突破した。つまりは新入生である。しかし――。
いやいや、『しかし』などと言っていては学校に失礼だ。それでも不安は付きまとう。
知人が一人もいないところに、単身飛び込むことになろうとは。
高校入学に際しては、同級生たちが別々な進路選択をする。当然のことだ。
だからこそ、いっそのことできるだけレベルの高いところに行ってやろうと奮起して、入試を突破した。
だが、今振り返って考えてみるに、それが災いしたのかもしれない。
これまで僕が通っていたのは小中一貫校だったので、同級生の顔ぶれはほとんど変わらなかった。いじめもなし。
しかしこれからは、周囲は知らない顔だらけ。誰が僕の身の安全を確保してくれるのか? それとも、これは人間性を高めるための通過儀礼なのだろうか?
「ぐ、ぐぬぬぬぬ……」
僕は薄暗い部屋の中、一人で壁に手を着いて唸り声を上げていた。
人間関係という名の怪物を前に、英語力は役に立たない。どれだけ難しい方程式を解くことができても、いかにややこしい論文を読破できても、意味はない。
「一体僕にどうしろと……」
こんな時、頼りになるのは父の存在だ。最近は不規則な生活を送っているから、こんな時間でも起きているかもしれない。
僕はパジャマのまま、ドアを抜けて廊下に出た。そしてその直後、大きく落胆することになった。
「ああ……」
父の部屋のドアには、『出張中』の文字の書かれたホワイトボードがぶら下がっていた。
そう言えば昨日の朝食の席で、これから忙しくなりそうだと話していたっけ。
肩を落として振り返った僕の目に飛び込んできたのは、もう一つの落胆要因。
何の装飾も為されていない、木目調のドアだ。母の部屋『だった』ところ。
最後に母に会ったのは、ちょうど一ヶ月前。入試結果を伝えに行った時だ。母はそれを我が事のように、というより僕以上に喜んでくれた。
どうして離婚などしてしまったのだろう? 当時三歳だった僕の記憶を辿っても、何も出てきやしないのだが。
僕は背中を丸め、とぼとぼと自室に引っ込んだ。とても二度寝する気にはなれない。
仕方がないので、事前に渡されていた教科書を読んで予習に励んだ。何も頭に入って来なかったことは言うまでもない。
※
それから四時間後。午前七時。
軽い物体がぶつかり合う、カチカチカチカチ、という音が僕の部屋に響く。
「くっ……。どうして学ラン一着にこんな苦労を……」
僕は震える手で、学ランのボタンと格闘していた。
既に日は窓から差して、今日が晴天であることを目一杯表現している。
それと対照的なのが、今の僕の心理状態だ。
厳密な入学式というのが行われるのは明日である。今日はオリエンテーションだ。このあたりの順番が普通の高校と違うのか否か、僕には分からない。
いや、興味がない。自分のことで精一杯なのである。
「よ、よし!」
何とかボタンと襟元のホックをかけた僕は、鞄の中身を(既に五回目だが)確認して、肩から提げて家を出た。
晴天の空の下、歩き慣れた通学路を進む。だが、行き先は高校だ。中学校ではない。途中で道を折れなければ。
僕がその大きな交差点に着いた時、人影はまばらだった。それでも、いろんな学校区分の服装が見受けられる。小中高、それぞれに相応しい格好の若者たちが、欠伸を噛み殺しながら歩いている。
ちなみに、この区分に大学が含まれていないのは、桜滝高校がこの地域の主要学術機関として機能しているからだ。企業招致ならぬ学術機関招致で、幾多の攻防が行われたのだろう。
「ここを左に五百メートル……。うん、間違いない」
スマホの地図で確認する。いや、実際に四度は足を運んでいるのだが。
僕が左の道に入った、その時だった。
「やっほ、優孝!」
「どわ!」
後頭部を勢いよくド突かれた。
追い抜きざまに僕をぶった人物は、自転車をくるりと半回転させ、僕と向かい合う。
「なんだ、愛奈か」
「ちょっ、何そのリアクション⁉ 酷くない⁉」
「酷くなんかないよ。勝手に人に絡んできておいて」
「ちょっとさあ優孝、あたしとあんたは幼馴染なんだよ? ちょっとは愛想よくしたら?」
「へいへい」
僕が片手をひらひらさせながらその場を去ろうとした、その時。
「げふ!」
再度後頭部に打撃をもらった。
「だから愛想よくしなって! これからまた三年間、一緒なんだからさ!」
「うーい。……え?」
「何よ、ポカンと口開けちゃって。驚くことじゃないでしょう?」
言われて気づいた。『また三年間』だって?
「愛奈、き、君も桜滝高校に……?」
「あれ? 言ってなかったっけ? 空手の全国大会準優勝の実績で、特待生枠で入学が決まったって」
「……」
「な、何、優孝?」
「……かった……救わ……」
「よく聞こえな――」
「良かった! 救われた!」
僕は自転車に跨ったままの愛奈の両肩を、がっしりと掴んだ。
「僕一人じゃない! そうだよ、愛奈がいてくれるじゃないか!」
「ぷふっ!」
一瞬で真っ赤になる愛奈。
僕が一人、悦に入っていると、愛奈は腕を振りほどきにかかった。
「離しなさいよ、ちょっとぉ! あ、もしかして優孝、独りぼっちで寂しくなるなー、なんて思ってた?」
高速で首を上下させる僕。
「よかったわね、あたしと一緒じゃない。ま、よろしく――って、あ、でも」
「んん? でも?」
「クラスは違うかもしれないね。そうしたら結局離れ離れじゃん? うちの中学から桜滝に入ったの、あたしとあんただけだから」
僕は、ピシリ! と音が出そうな勢いで固まった。
「一学年九クラス制なんだって。あんまり期待しないでね? あたし、コミュ障なあんたの通訳、続けるつもりはないから」
『やっほー』と訳の分からない声を上げながら、愛奈は勢いよく自転車で進んでいった。
「愛奈と同じクラスになれる確率、九分の一、か……」
僕はその場で膝を着きそうになった。
※
結論から言おう。
俺と愛奈は、二人共めでたく一年五組に振り分けられた。校門に配された掲示板で見た限りでは。
「あ、腐れ縁ってやつかしらね? よろしく頼むわ、優孝!」
「あ、ああ……」
この『ああ』は返答えではない。詠嘆だ。
よかった。愛奈がいてくれる。これでぼっち生活問題は解消されるはずだ。何故か愛奈も嬉しそうだし。
スキップしかねない愛奈のそばを、足早に歩く。
教室に入ると、座席表が黒板に貼り出されていた。教壇から見て、愛奈は教室中央。僕は中央の一番後ろの席だった。
この距離では、いざという時のアイコンタクトも難しそうだ。それを難儀に思いながら、自分の席に向かう。
そんな僕に対して、運命はあまりにも残酷だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます