一章

男は部屋の中で、母に読んでもらった絵本を繰り返し、繰り返し、何度も読み返す。


『むかしむかしあるところに、リサちゃんというかわいらしいおんなのこがいました。リサちゃんはいつもねがっていました。へいわなせかい、いじめのないがっこう。リサちゃんはともだちとなかよくありませんでした。

 あるばん、リサちゃんがねむっているところに、かみさまがきてこういいました。「リサちゃん、きみはつらいおもいをしているようだね。きみのねがいをかなえましょう。せかいからあらそいをすべてなくし、へいわなせかいへ!さあ!めざめたらたのしいせかいにかわっていますよ!」

 あさ、リサちゃんはめがさめるとおかあさんにあいにいきました。おかあさんはとってもあたたかいえがおでした。おとうさんにあいにいきました。おとうさんもあたたかいえがおでした。もうおとうさんはリサちゃんをなぐったりしません。リサちゃんががっこうへいくと、ともだちみんなが、わになってあそんでいました。リサちゃんはそれにまざりたいというと、みんなえがおでリサちゃんを、わにいれてあげました。いつのまにか、リサちゃんもえがおでした。』


 男は何度もパラパラと絵本をめくり読み直した。絵本は何度も読み直されたせいか、ボロボロになっていた。男はこの絵本を読みながら願う、平和な世界を。

 この男は名を吉田と言った。吉田は自分が不幸な人間だと思い込んでいる。

 「ああ、神様、どうして俺にばかり不幸の種をお与えになるのですか。どうして小田ではなく私なのですか。」

 一人虚しい言葉はボロアパートに消えてゆく。小田というのは吉田の小学からの幼馴染だ。現在は大手出版社に勤めており、高い役職に就いているらしい。

 吉田は深いため息をついた。そんなことを言ったところで神は目の前に現れないし、結局現実は自分で変えるしかない。そんなことは頭では重々承知である。しかし、吉田はお先真っ暗だと自分で思っている。

 吉田は時計で午後十時であることを確認すると、白い使い捨てマスクを身につけ薄汚れたブラウンのコートを羽織り、外に出た。電車で三十分ほど揺られれば、人通りが多く、高いビルが立ち並ぶ眩しい街に着く。東京郊外で暮らす彼にとって、この賑やかな街は『仕事』をするのにうってつけである。

 吉田は手短なコンビニに立ち寄った。監視カメラの場所を確認する。ジュース売り場の上に一台のみ。次に従業員を探してみると、時間帯もあって若い店員が一人しかいないようだ。吉田は、よしと腰を据えて『仕事』に取り掛かった。彼の仕事とは、そう、万引きである。ブカブカのコートの内側にはカンガルーのような大きな布袋が縫い付けられている。店員の目が向いてない隙をついて、パンやお菓子などをコートの内側に放り込む。自分でも信じられないくらい手際が良いと自画自賛したところで、出口に向かう。自動ドアの前に立ち、ドアが開くのを待つ、瞬間、後ろに気配。吉田は汗がスーッと引くのを感じた。

 「君、会計してないものあるよね」

 吉田はフッと後ろを振り返る。先ほど確認した若い店員とは別の、五十代くらいの黒髪の店員だ。しまった、どうしよう、逃げるか、逃げたら追いつかれるか。ほんの一瞬の間に様々な考えが吉田の頭の中を駆け回る。

 「ちょっと裏に来てもらおうか。」

 黒髪の店員が店内のドアを指さした途端、その隙を見計らって吉田は外に向かって駆け出した。うしろから、待てという大きな声が聞こえる。吉田は裏道に入って、ひたすら走った。次第に店員の声が小さくなっていく。数分走ったところで店員は見えなくなっていた。吉田は息切れしながらその場に座り込み、ホッと胸を撫で下ろした。そして、数日間、飯に困らない喜びと、自分は何をしているんだという罪悪感や虚無感を同時に感じていた。

 吉田は今年で三十八になる。吉田はさっき盗んだアンパンを食べながら、自分の人生を振り返っていた。

 高校卒業後、ネジ工場に勤める。しかし、ネジとの睨めっこに飽き飽きし、たった三ヶ月で辞職。その後コンビニバイトやラーメン屋のバイトなど、様々なバイトをしてみたがどれも続かず、すぐに断念。半年と続いた仕事はなかった。小学生の時から仲の良い小田は中学卒業とともに別れたが、ある日居酒屋でばったり再開。近況を語り合った。

 「よしちゃん、ひさしぶり。俺と離れてもう20年以上か!元気にやってたかい。」

 「元気といえば元気かな。そういうおだんは今は何をしてんの?」

 「俺は大林出版に勤めてるよ。意外と待遇が良くて、出世コースみたいなもんだ。」

 小田は笑いながら続ける。

 「まあ、一つの仕事を続けるってのは悪いことじゃないと思ったよ。確かに俺のところは限りなく黒に近いグレー企業みたいなもんだけど、続けることで仕事のコツを覚えてきたし、自分で試行錯誤するようにしてるんだ。」

 吉田は小田に顔を合わせられないような気がした。自分が仕事をやめフラフラとバイトなどをしている間に、小田は出世コースに乗っていた。しばらく会わない間に天と地の差がついたように感じたのだった。その後、他愛のない話をして解散した。メールアドレスを交換したが、吉田からメールを送ることはなかった。

 吉田はその飲み会の帰りにコンビニに寄り、初めての万引きをした。盗む瞬間の背徳感、店の外に出るときの心臓の高鳴り。吉田はこのとき、十数年ぶりに興奮していた。そして、そのまま万引きが慢性化し、いつのまにかバイトもやめ今に至るのである。

 なんてつまらない人生だろうか、と吉田は思う。自分は社会から溢れたゴミ、人間のクズ、底辺だ。万引きなどというつまらない犯罪を犯し続ける毎日。

 だから、吉田は常々願っている。平和な世界を。不幸なんて言葉がない世を。自分のような底辺と、小田のような天の存在が横に並べられる、そんな世界を。

 吉田は家につき、ガスは止められていたので仕方なく冷たい水で風呂に入った。そして、ガチガチに冷えた体を薄い煎餅布団で温めるように眠りについた。

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無カン @00koma00

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