Ⅲ 海神の巫女

「――もし? ……もし? 大丈夫ですか?」


「…………う、うぐ…」


 あれからどれくらい時がたったのだろうか? ハーソンの耳に、そんな自分に呼びかける声が聞こえる。


「もし? このような所で寝ていては風邪をひきますよ? 生きているのならば起きてください」


 なんとも耳障りのよい、清らかなな若い女性の声だ……なぜ、そのような声が聞こえるのだろう? ……ここは、どこだ? 自分は何をしていたのだったろうか……?


「……う……うん……あなた……は……?」


 頭が朦朧として記憶が混濁する中、夢現ゆめうつつの状態のままハーソンが薄っすら碧の眼を開けると、そこには寝転がった自分を覗き込む、一人の美しい乙女の姿があった。


 雪のように白い肌に海のように深い蒼色の瞳、明るい金色の長く麗しい髪の上には、蔓を編んだ冠に野花を飾って載せている。


 ……女神か……あるいは天使だろうか? ここはもしや天国……いや、人間が追放されたという楽園だろうか?


 吸い込まれそうなつぶらな瞳で、まじまじと自分を見つめる乙女の端麗な容姿に、ハーソンはぼんやりとそんな感想を抱いた。


 ……そういえば、古代異教の民の墳墓らしきものに登っていたのだったな……そうしたら、それが地震で崩れて……そこにできた穴に落ちて……では、ここは異教の黄泉の国か?


 そして、その取り留めもない感想をきっかけとして、自分の身に起きたことをハーソンはだんだんに思い出してくる……。


 ……そうだ……俺はあの墳丘に空いた穴の中へ落ちたんだ……ということは、ここはあの墳丘の中……。


「……っ!? こ、ここは!? ……痛っ…!」


 ようやくすべてを思い出したハーソンは、それとともにガバっと勢いよく上体を起こした。と同時に、全身のあちこちに打撲のような痛みが走り、思わず短い悲鳴をあげてしまう。


「やはり、あそこ・・・から落ちて来られたのですね。強く体を打ちつけたようですが、大事はなさそうなので安心いたしました」


「落ちて来た……?」


 乙女のその言葉に痛みを堪えながら上を見上げると、なんとも不思議なことにも青空の天頂部に亀裂が入り、ポカリと大きな穴が開いている。


「空が割れているだと!? なんなんだここは!? 俺は墳丘の中に落ちたはずだぞ? ……いや、ということは、ここはあの墳丘の中だというのか? し、しかし、石の塚の中に空があるというのは……」


 だんだんと自分の身に起きたことを理解し始めるハーソンであるが、すると今度は今、目の前に広がっている光景とのギャップに頭が混乱してしまう。


 不思議なのは頭上の青空ばかりではない……視線を周囲へ向けると、そこには草木が生い茂る青々とした大地が広がり、川が流れ、水車が回り、畑や果樹園もあるかと思えば、暗緑色の石のスレートを積んで造られた家々もあちらこちらに建ち並んでいる。


 中でも特に目を惹いたのは、その大地の中央――ハーソンの目の前にそびえ立つ、異教のものと思われる古代風の大神殿だった。


 巨大な石の列柱が並ぶドーム状の屋根の建造物であるが、全体にあの石碑の如く渦巻き模様が施され、古代イスカンドリア帝国のものともまた違う、見たこともない変わった様式だ。


「ここは〝マグ・メル〟――わたくし達ダナーンの言葉で〝喜びの島〟という意味です」


 ゆっくりと立ち上がり、唖然と周囲の景色を見回すハーソンに、対する乙女は落ち着き払った声でそう答える。


「ダナーン? 確かにマグ・メルといえば、聖ブレンディンが辿り着いたというダナーン人の楽園の島……そ、それじゃ、君はダナーン人だというのか? い、いやでも、ダナーン人は遥か昔にミレトス人に滅ぼされ、黄泉の世界へ追いやられたはず……ま、まさか! 地下世界へ逃れたというのは本当に……」


「ダナーンは滅んではおりません。確かにミレトスとの戦に敗れ、地上を追われましたが、こうして地下の世界で生き続けているのです。かく言うわたくしもダナーンの民の末裔、かつてこの島の王だった海の神〝マナナーン・マク・リール〟に仕える巫女のウオフェと申します」


 乙女の言葉にますます混乱を極めるハーソンであるが、彼女はハーソンがまさかと思ったその予想通りに、自身がダナーン人であることをさらっと肯定してみせる。


「そ、それじゃ、大昔から君達はこの塚の中で暮らしてきたというのか!? 〝地下世界に逃れた〟というのが、まさかその字義通りのことだったとは……い、いや、でも、現実にそのようなことが……それに、地下だというのになぜここには空がある!? なぜ、太陽もないのに明るい!?」


 乙女――ウオフェと名乗る美女の言うことをなんとか頭では理解するも、やはりその現実離れした話は俄かに信じられず、頭上に広がる穴の開いた青空を震える瞳でハーソンは再び見上げる。


「空があるのは、石の天井にダナーンの魔術で映し出しているからです。同じく明るいのも光の神〝ルー〟の力を用いる魔術ですね。それと、我々が逃れたのはこの〝マグ・メル〟だけではありませんよ? 常若とこわかの国〝ティル・ナ・ノーグ〟や影の国〝ダン・スカー〟など、ダナーンの民が住む地下の世界は他にも幾つかございます」


 そんなハーソンに、やはり彼女は平然とした顔で、何の不思議もないとでもいうようにそう説明した。


「とても信じられんが……今、見ているのが現実であるならば、それも本当にそうなのだろうな……確かに、ダナーン人は魔術に優れていたと云う……ならば、このありえない景色もありえるということか……」


 やはりまだ半信半疑ではあるものの、ダナーン人にまつわる魔術の伝説を思い出すと、ハーソンはようやくに一応の納得を見せる。


「……そういえ、今、君は〝巫女〟だと言っていたな? ならば、ダナーン人の魔術にも詳しいのか?」


 そして、何度見ても石塚の内部とは思えない、ここが地上と見紛うばかりの美しい景色を見渡しながら、ハーソンは再びウオフェに質問をぶつけた。


 よく見れば、彼女は純白のチュニックのようなゆったりとした衣を纏い、首には魚の装飾が付いた金のトルク、右手にはイチイの木の長い杖を携えている。


「まあ、それなりには……といっても、マナナーンやルーのような古の神々とは違い、わたくし如きではたいしたことはできませんけどね」


 その問いに、細く綺麗な金色の眉を「ハ」の字にして、かわいらしい苦笑いを浮かべながらウオフェは答える。


「ならば訊きたい。ダナーン人は魔法剣を代表とする優れた魔法の武器を造ることができたと聞く。それは真の話か?」


「……え? ええ。その製造法は秘伝ですので、誰しもができるというわけではありませんが、魔法の道具を作り出すのもダナーンの魔術が得意とするところです。魔法剣なら一本この島にもありますよ。ご覧になられますか?」


 俄然、興味を抱き、彼女の方を振り返るとさらに重ねて問うハーソンであるが、するとウオフェはまたさらっと驚くべきことを口にしてくれる。


「なっ…!? こ、ここに魔法剣があるというのか!? ぜ、ぜひにも見せてくれ!」


 意外なほどにあっさりと見つかってしまったお目当ての一つである魔法剣に、当然、ハーソンはすぐさま飛びつくと、彼女の申し出に興奮した様子で詰め寄った。


「わ、わかりました。では、どうぞ、神殿内へ。でも、まずはあなたの怪我の手当てからいたしましょう。大事はないと言っても、あの高さから落ちたとあれば、ひどい打ち身ではあるでしょうからね」


 彼の食いつきぶりに少々引きながらも、そう言って天を指さすウオフェの言葉に、全身を走る鈍痛のことをハーソンは思い出した。


「痛っっ……確かに。その必要がありそうだ……ん? そういえば、何か大事なことを忘れているような……あっ! ティヴィアスは!? あいつはどうしたんだ!?」


 思い出すと、忘れていたその痛みを強く意識するようになるハーソンであるが、もう一つ、すっかり忘却の彼方に追いやっていた相棒のことも今さらながらに思い出す。


「ティヴィアスを……図体のデカい男も見かけなかったか!? そいつも一緒に落ちてきたと思うんだが……」


「さあ、見かけたのはあなただけでしたけれど……お友達ですか?」


 慌てて問い質すハーソンに、ウオフェはまったく心当たりのない様子で首を横に振る。


「そうか……そんなに遠くへ落ちたとも考えられんし、やつは落ちずに助かったか……今頃、別の入り口を探しているのかもしれないな。じゃあ、その間に悪いが先に手当てをしてもらいがてら、魔法剣を拝ませていただくとするか」


「はい。それでは参りましょう。どうぞ、わたくしの肩に腕を。魔法剣〝フラガラッハ〟はマナナーン・マク・リールを祀る祭壇にあります」


 改めて頭上の穴と周囲の景色を見比べ、姿の見えぬティヴイアスにそんな解釈を下すハーソンに、ウオフェは肩を貸しながら彼を神殿へと誘う。


「そういえば、まだお名前を聞いていませんでしたね」


「ああ、これは失礼した…痛つっ……俺はハーソン、ずっと南の方にあるエルドラニアという国から来たハーソン・デ・テッサリオだ」


 そして、今さらながらにも名前を尋ねてくるウオフェに、気づけばすぐ近くにある彼女の美しい顔に思わず体を仰け反らせると、再び全身に走る痛みを堪えつつ、ハーソンはそう簡単な自己紹介をして彼女とともに歩き出した――。

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