5-1. 輾転
殺された方が幸せな人間は間違いなく存在する。
ハバキという個人がその結論に至ったのは、シズ・カゲキとの出会いがきっかけだった。
二年間の汚れをシャワーで落とした彼は、あの頃とほとんど何も変わっていなかった。
少し突き出た頬骨や、尖ったあご。そして、あの鷹のような目。
火傷の痕は残らず医療用ジェルに覆われ、顔にも包帯が巻かれていたが、それでも分かった。
彼だ。
青春に消えない足跡を刻み付けてくれた人。過ぎ去る他人ではなく、名前を持って相対してくれた個人。話すだけで、瞳に映すだけで、冷えきったこころを真っ赤に燃やしてくれた人。
マジックミラー越しに取り調べを見物するあいだ、彼と視線が何度か合った。
いや違う。
彼はただ殴られて顔の向きが変わっただけだ。
ずっと彼の視線を追っていたのは自分の方。
隣でコイグチが「大丈夫か?」と訊いてきたとき、震える己の身体に初めて気が付いた。
握りこぶしを開くと、割れた爪に血がにじんでいた。洗面所に駆け込んで甘皮を削りながら、ハバキはぼんやりと前方を見つめた。鏡の向こうでも、やつれた女が乱れた髪をふわりと広げていた。
彼と再会するシチュエーションはいくらでも想像してきた。
だいたいは自分が撃たれる側だった。
撃たれて当然だった。彼には無茶を通す実力があり、そんな彼に頼るうちにこの身は堕落したのだから。
シズ・カゲキを確保したとき、シズの妹は満身創痍だった。
兄と自らの血で穢れた彼女を見た瞬間、胸のあたりに灼け付くような感触があった。
帰るまでは教え子が傷ついた怒りだと思っていた。だがあの子の無事を知らされても、むしろ胸の炎は大きくなった。ロッカールームでグリーンウェアを脱ぎ捨て、傷ひとつないまま濡れた己の裸体を目にしたとき、天啓のように答えが訪れた。
あの身体。傷に傷を重ね、柔らかな皮膚を裂いてピンクの肉が覗いた肢体。
羨ましかった。
彼女は責任を以て彼と向き合い、そして自身の暴虐に見合った罰を受けた。
穢れを焼かれるのは悪人で然るべきだ。
ゆえにハバキは穢れを育てたつもりだった。
彼に会ったとき、真っ先に清められるように。
だが、今回も選ばれたのは彼女以外の人間だった。
まだ足りない、と思う自分がいる一方で、無駄だと悟っている自分もいる。
あの男がハバキという女性を選んだことは一度たりとも無かった。
きっと、これからも。
尋問室の前に立つと、憲兵隊長が敬礼をしてきた。
「わたくしが執ります」
ハバキが告げると、彼は困惑したように見えた。
「とる、とは?」
「あなた方の稚戯に耐えかねたということです。あの男に面を通させなさい」
「まず落ち着かれてはいかがでしょう。いくら特務中尉といっても、ご無理が過ぎます」
「無理は通してこそのものでしょう」
憲兵隊長は肩をすくめて、尋問室に入って行った。やがて取り調べを担当していた伍長が出てきて、荒っぽい敬礼を寄越してきた。彼の薄ら笑いを見なかったふりをして、ハバキはドアをくぐった。
「マロっちか?」
手錠がガチャガチャと鳴った。
男は椅子に縛り付けられたままで、顔の方も十数発は殴られてひどい有様だった。血がにじんだ包帯の隙間から、ぎらつく目がこちらを見た。オレンジの虹彩に青ざめた女の顔が映る。
「お久しぶりですわね、大尉殿」
向かいのパイプ椅子に座り、そっと照明に手を伸ばして輝度を落とす。
妹そっくりの鷹みたいな目と向き合うと、また胸の炎が大きく燃え盛るのを感じた。
「流石だったよ」
と言って、カゲキは咳き込んだ。瞳から女の顔が消える。
「戦闘機動だった僕に致命傷を与えず、ORBSの制御部だけレーザーの最低出力で焼き切った。ゼロインは13000ってところか? ピアノみたいに繊細に調節したもんだ」
「よく御覧になっていらっしゃって。手心を加えなさったから?」
「何の話だかね」
目が細くなり、瞳の中に光が反射する。自分が映る前にハバキは目を閉じた。
「……海軍の方から、貴殿の身柄を引き取りたいと」
「向こうは学があるから悪い話じゃないな。陸軍ってやつは士官でも兵卒みたいな性根でいけない」
「なぜ『グラム』を模したのですか」
答えまで数秒の間があった。
ハバキが目を開けると、男は微笑んでいた。視線が合った瞬間、膿で黄ばんだ包帯の切れ端が揺れた。
「僕も男だ。出来ることが同じなら、見た目が良い方を選ぶさ」
「しかしあなたが選んだのはトツカさんでございました。わたくしではなく」
「なあ、学生時代を蒸し返すためにここに来たのか?」
いいえ、とハバキも微笑み返し、照明の輝度を戻した。
マジックミラーの向こうから数人分の視線を感じた。だがすべて他人だ。とうに吹っ切れた。
「では真面目な話し合いといたしましょう。時間は逃げても、事情は逃げませんもの」
ずきりと痛みが伝った途端、ひび割れた唇から笑みがこぼれた。
また、こころが血を流している。
この人と会うとき、自分はいつも血まみれだ。
罪があるから、罰として受け入れることができる。もしこの人と無垢なまま会ったら耐えられない。
――さあ、刃を突き立ててくださいな。
ハバキは机の上に手を置いた。磨いたネイルが光に反射して白む。
きっと、どこかで殺された方が幸せだった。
―――★
今日もシズは走り込みに参加しなかった。
トツカがペースメーカー替わりに小隊の横を並走していると、第二小隊の連中が死にそうな顔ですれ違って行った。
「根に持たれてるらしいよ」
クスネが隣を走りながら目まで垂れてきた前髪を漉く。
「おい、私語はやめろ」
「あんだけ一方的にボコられちゃぁね。手加減されたくせにさ」
トツカが殴るふりをすると、彼女は列に戻って行った。
三周目に入るついでにトツカは一瞬だけ振り向いた。
第二小隊は相変わらずハイペースで走っていた。顔を赤くした面々に、欠けたメンバーはいない。
堕とされた海軍機のパイロットは全員死亡したらしい。
トツカも含めて学生たちは峰打ち。シズだけがまともに相手された。
五キロメートル走ったところで水分補給に休みながら、トツカは空を仰いだ。
悔しいという気持ちすら湧かなかったのは、身体が動いた頃の義姉の試合を見たとき以来だ。あまりに離れていて、別世界の話にしか見えない。
「意見具申。もう少しペースを上げたい」
副隊長のハモンに言うと、彼はしぶしぶうなずいた。
慣れない笛に四苦八苦するハモンを横目に、トツカはじんじんと痛む肩をさする。先の戦闘で唯一残った傷だ。ためしに強くつねると、思いのほか肉が深く沈んだ。
それでも弾丸と比べたらずっと浅い。実戦はこんなものじゃなかったはずだ。
――死ぬ気で来いよ。殺してやるから。
男の声が脳裏に響いた。
「ヌルいんだよ……オレたち」
更衣室から出ると、いつものようにスティーリアがタオルを提げて待っていた。
「……どこのだ」
もらったタオルは定食屋のおしぼりみたいに毛羽立っていて、顔を拭くとちくちく痛んだ。
乾燥機のにおいに鼻をひくつかせていると、スティーリアは窓の方を指した。
「病院。コベリさんとキョウカの身体を拭いたら余っちゃった」
「ちゃんと許可取ったよな? 足りないタオルなんて洗濯班には見つからない薬莢みたいなもんだぞ」
「もちろん。私も備品だから分かってるよ」
顔から離したタオルには小さな赤い染みが付いていた。
トツカが目の下をさすると、いつの間にか傷があった。少しばかりこすり過ぎたらしい。
「で、持って行った筆記用具はアレで足りてたって?」
トツカはため息をついて、タオルを首に巻いた。
「はい。ごめんね、本当は私が気付くことだったのに――」
「休まねえからな、シズのやつ」
自分の表情が歪むのが分かった。
顔を隠す代わりに、トツカはタオルの端をシャツの襟に入れた。
「あいつの机の上、死亡届と手紙があった」
返答を待ったが、スティーリアは何も言わなかった。
ため息をつこうと思って口を開くと、情けない笑みがこぼれた。
「自分と兄貴の二通ずつだ。本気で殺すつもりだったんだ。でも家族だぞ?」
「マスターも撃ったんでしょ」
「ああ。殺したと思った。『やっちまった』ってな。自分で撃ったくせに殺すことを勘定に入れてなかったんだ」
言いながら胸のあたりにつっかえるものが込み上げてきて、トツカは咳払いした。
「……もう分かんねえよ。オレ、何やっても足りてねえんだ」
スティーリアは青い目で見つめていた。
いつもの微笑み顔からは何も窺い知ることはできないが、思えばこの人の方が多くの死を経験しているのだ。騒いでいる自分が急に小恥ずかしくなってきて、トツカは首からタオルを外した。
スティーリアにタオルを突き返したとき、廊下の向こうからコイグチ教官がやって来た。
「あ……ハモンですか?」
トツカが会釈すると、教官はごましお頭をこすりつつ、低くうなった。
「その予定だったが、おまえらの方が都合がいい。ちょっと頼まれてくれんか」
「はい?」
あのな、と言ってコイグチ教官は肩を落とした。
「仮眠室へ行って、そこのやつと話してくれるだけでいい。俺だと手が出ちまいそうだ」
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