4-1. 鍾馗

 今日も医務室にはカントリーミュージックが流れていた。

 案内してくれた看護師からは柑橘系の香りがした。珍しい香水もあるものだと思っていたが、診察室に入ってから、病院で香水は使わないだろうと思い至った。そういう匂いの消毒液があるのかもしれない。


 近所の年寄りばかりの棟内で、ピッチの外れたピアノの音だけが、ここが都会なのだと知らしめてくれる。

 思えば故郷の茅場チバでは病院といえばクラシックばかりだった。スローのヴァイオリンと、それをつまらなそうに聞く義姉の横顔。

 

 ――病院ってのは病気になるために来る場所だ。

 そうやって義姉はよく愚痴っていた。後先を考えず無茶ばかりする彼女は、薬局から出てくるたび処方箋の束をぶら下げていた。そんな傷だらけの身体になっておきながら、こっちはいたって健康体なのに、べたべた触って変な病名ばっかり付けてきやがる、と。


 トツカが手首の異常に気が付いたのは面を打ったときだった。

 竹刀が相手の面布団に当たった瞬間、ずきりと手の根本がうずく感覚があった。稽古後に小手を外しても青あざが見られない段になって、いよいよ骨折かと思った。

 捻挫や打撲は経験した。だから見れば分かるつもりだ。確信めいたものがあった。


 トツカが診察の椅子に座ってから、医者は、トツカの手をさすってフムフムと言ってばかりだった。目を細めた彼のそばかす顔からは何の感情も読み取れない。

 しばらくしてパチパチとパソコンに入力を終えると、医者は「鎮痛剤、要る?」とだけ訊いてきた。

 相変わらず、この人は「する」というより「こなす」ように仕事をする。


「折れてませんかね」

「ん、ただの肉離れだね。全治3日」

 医者はドアの前に立つ看護師に向かって、曲を変えるように言った。

「今日はホーカムが良いな。もっと崩しちゃって……」

「承りました」

 下品な歌詞がアップテンポで流れるのをBGMに、医者はくるりとトツカに向き直った。

「で、誰に撃たれたんだ?」

「は?」

 聞き間違いかと思って尋ね返す。受付では剣道の傷だと言ったのに。

 医者は面倒くさそうに、自分の手首をぱんぱんと叩いた。 

「それ、非殺傷弾だろ。ムラクモじゃお目にかかれない弾種だ」

 彼の血色の悪い肌は筋張っていて、むくみが目立つ。思ったより歳がいっているらしい。ほんの数年前まで現場にいたこともありえる。

「……警官隊です」

 口に出した途端に医者の目が冷たくなったのを見て、トツカは「人に言えないことをしました」と小さく付け加えた。

「というと?」

「あー……その、ちょっとドヤ街の方で」

「そんなところに狙撃銃をかついだ警官がいるか。もう少しマシな嘘をつきなさい」

 果たしてこの男、どこまで察したのだろう。

 そう思った瞬間、かっと耳が熱くなる気配があった。


 ――『英雄がホームレスみたいな恰好になって帰ってきました。変な棄械スロウンも一緒です。そいつらに襲われて殺されかけました。この肉離れはオレなりに最善を尽くした結果なんです』――


「まあいいや。生きて帰ったなら大したことじゃないんだろうし」

 ぶちまけようとした言葉は、医者のため息で遮られた。

 さらさらと耳の奥で血が引いていく。握りこぶしを作っていたことに気が付いて、トツカはそっと指を開いた。爪が食い込んで白くなった手のひらをじっと見つめているうちに、診察が終わったことを告げられた。

 看護師に促されるまま診察室を出る。待合室のソファに腰かけるついでに、トツカはひたいを拭った。まだ喉につっかえたような感覚があって、咳払いをする。


 もし、すべて言ったら医者は信じただろうか。

 信じた気がする。どっちにしろ言うべきだった。


 あの男のことは腐ったような体臭から目じりのシワまで脳裏に焼き付いている。

 今までどのニュースでも、シズ・カゲキの顔が映ったことはない。ずっとプライバシーの保護が理由だと思っていたが、今ならそのわけを理解できる。

 あれは軍人の顔だった。英雄なんかじゃない。あの医者と同じで、「こなす」ように死体を作る職業軍人だ。マシンだった。

「くそ……」

 震えだした膝を打つ。

 相手が物語のヒーローだったらどんなに良かっただろうか。たまたま天から降ってきた力を拾っただけの凡人だったら。

 あいつは違う。経験、知識、身体。どれを取ってもくぐり抜けてきた実戦を感じた。きっと何をやっても殺されていた――これまで殺されてきた連中と「同じ」ように。


『観艦式には出るな』とシズ・カゲキは言っていた。

 事情は知らないが何かやるつもりだろう。

 勝てなくても、敵わなくても、あの男とぶつかる日は近い、ということだ。

 膝から手を上げ、トツカはかぶりを振る。

 肉離れした右手は今でもずきずきとうずく。どうしても腱が突っ張って、指を伸ばすのにも若干のタイムラグがあった。それとも怖気が身体に出ているのか。


「トツカくん?」

 細い声がした。隣に座る女がこっちを見ていた。

 しばらく誰か思い出せなかった。彼女のオレンジの瞳がぱちぱちとまばたきをする段になって、ようやくトツカにも分かった。

「あ……化粧してるのか」

「え?」

 シズは頬に手をやった。チークでほんのり色付いた肌を数度さすって、うなずく。

「さっき買い物に行ってたの。変だった……?」

「いや。よく分かんねぇけど、似合ってるんじゃねえの?」

 けてよそおうとはよく言ったものだ。シャドーで鼻とあごの輪郭まで変えているものだから、本当に瞳だけしか手がかりが無い。


「コベリさんのヘアバンドを買いに行ったんだけど、倒れちゃって」

 シズは膝に置いた紙袋をくいっと持ち上げた。袋に印刷されたロゴは駅前のアパレルショップのものだった。トツカ一人じゃ絶対に入れないような甘々した店だ。

「ああ……髪、長いもんな。でも倒れたって、またか?」

「ん。すぐ治るからって言うんだけど、顔が真っ白だったから」

 ここのところの多忙で貧血が悪化したのか、コベリは医務室登校が続いている。

 たまに稽古場には顔を出すが、そのときもスティーリアの介助付きで、トツカが他の部員と打ち合っていると咳き込む声が聞こえたものだった。


 とりあえず水を取りに席を立ちながら、トツカは彼女の真っ黒い瞳を思い出した。

 顔を上げると、ウォーターサーバーの水槽に映った瞳が見つめ返してくる。サクラ色の瞳孔は、見慣れた自分の色だ。シズはオレンジで、棄械スロウンどもはたいてい赤い。

 黒は滅多に見ない。

 ……本当に貧血だろうか?

 あれは棄械スロウンの腹から出てきた人間だ。それにシズ・カゲキたちも彼女を狙っているような口ぶりだった。人間じゃないのかもしれない。もしかしたら兵器だとか。

 老人のように腰を曲げて歩くコベリが、水槽の向こうに見えた気がした。

 指に水が触れ、溢れたコップに気が付く。トツカは口もとに持っていきながら、もうひとつサーバーにコップを置いた。


 紙コップを持って戻ると、シズがスカートのほつれをつまんでいた。トツカに気が付いて手が離れたとき、彼女の膝小僧が白く光を反射した。


 この人、細いな。


 急に気まずくなってトツカがコップを差し出すと、シズはぎこちない手つきで受け取った。

「どうしたの?」

 シズが足を組む。卵のような膝の皿が、腱に引っ張られて浮き上がった。

「いや。今日はスラックスじゃねえのかって思って……」

「あ、これ?」

 シズはスカートのひだに小指を突っ込んだ。

「夏にパンツだと暑くって。トツカくんこそ、そんなカッコでよく我慢できるよね」

「ン。シャツに袴を穿くわけにもいかねえしな」

 言われてみれば、義姉は夏になると洋服をすぐに仕舞いたがっていた。

 住居も安普請のスッカスカで冬になると火鉢無しではいられなくなるほどだったが、それに文句を言うとポカンと頭を叩かれて、「家は夏で決めるの!」と返された。


「……夏に暑いのと、冬に寒いの、どっちがマシかねえ」

「冬じゃない?」

 上品に水を飲みつつシズは目を細めた。

「冬は重ね着を増やせばいいけど、夏は裸以上にはなれないでしょ」

「オレはそれ、服をたくさん持ってるブルジョワの意見だと思うんだよな……」

「貸してあげようか?」

「あいにく、そういうのは自分で稼ぎたい」

 ともあれこの人は義姉と意見が合いそうだ。

 ずりずりと水をすする一方で、トツカは手首を揉んだ。肉離れと分かってから、急に痛みが引いた気がする。この身体も案外と信用できないものらしい。


「このあいだの?」

 シズが横目で見てきた。トツカは手首を離して、くしゃりとカップを握り潰す。

「……このあいだ?」

「私たちが勉強会してたとき」

 いや、と思わず口を開くと、オレンジの瞳が少し小さくなった。この人はどうしてこうも察しが良いのだろう。顔に出した覚えもないのに。

「嫌なら当てようか? 当たるまで言うけど」

 じっと睨まれた。本気だ。

 トツカは濡れた自分の指を見る。まだ動きが悪い。少し気を抜くと紙カップの厚みで簡単に押し返されてしまう。

 シズの人間には勝てないな、と思った。悔しいが。


「シズ・カゲキが帰ってきた」

 ちらりとシズを見ると、彼女は小さくうなずいた。

「だと思った」

「驚かねえのか」

「トツカくんが遠慮することだもの。元気そうだった?」

「子供に擬態した棄械スロウンと一緒だった。観艦式に出るなってよ」

 シズがあごに指を当てる。トツカが空になったカップを捨てに行こうとすると、彼女は大きくため息をついた。

「いつもそうなんだよね。何でもやることだけ勝手に決めつけて、ぜんぶ終わってからネタバラシ。私のことも、スティーリアのことだって……」

「どうすんだ?」

「トツカくんがやりたいなら、決めていいよ」

 やけに投げやりだ。

 トツカが足を止めると、シズは半分だけ目を閉じた。

「兄のそういうところ、大嫌いだったから。同じことをトツカくんにはしたくない」

「だったら言うなよ」

「トツカくんが断ったらにぃ――兄を殴れないじゃない」

 シズは一拍置いて空咳をうつと、それがはしたないことのように小さくうつむいた。

「これでも怒ってるから。変なことしたら、一発かましてやる」

「なあ、それオレの真似じゃねえよな?」

 恐る恐る尋ねても、彼女はへなへなと笑うばかりだった。


 薬局で鎮痛剤をもらって戻ると、シズは既にいなくなっていた。

 座席を消毒しているガイノイドがトツカの顔をつらつらと眺めて、「カノジョさんは帰られましたよ?」と言うので、ありがとうと返しておいた。

 チャイムが響いて正午を告げる。

「……カノジョ?」

 そっと呟いても、ガイノイドはとっくに他の席の消毒に向かっていた。



 ピークを少しズラした時間のカフェテリアに利用者はあまりいなかったが、目的の人間は壁際を探すとすぐに見つかった。

 あの男はヒマを作るためにわざとゆっくり食う。いつも独りでいるから盗み聞きの心配も無い。

 トツカが男のチャーシュー麺の横にざる蕎麦を下ろすと、麺をすする音が止まった。

「……まだ貧乏くさいの食ってるのかい」

 トツカは黙って薬瓶を取り出した。

 男が横目でうかがってくる。

 瓶の中にはピンク色のジェルがみっちりと詰まっている。ほう、と男が声を出す。


「オレを撃った野郎が使った弾だ。あいつの所属が知りたい。分析しろ」

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