3-4.

 終戦時。手足は4本とも揃っていたし、頭もまともに回る。

 ただ見方だけ少し変わってしまった。

 仮初かりそめの平和――なんとも馬鹿馬鹿しい。まるでこっちの中身が詰まってるみたいじゃないか。実際に空っぽなのは自分たちの方なのに。


 橋の下というのは街の生活を最も感じられる場所だ。日中は歩行者たちが橋げたを踏みしだき、夜はトラックが轍を刻む。交通量が少ない日は、たいてい棄械スロウンが現れたときだ。そういうときはすぐ頭上をカタピラが削りながら進むので分かる。

 毛布を敷いたバラックの前で、男は期限切れのエナジーバーをかじった。すっかり湿気た生地が舌にまとわりつくのを、藻の浮いた飲料水で流し込む。口もとを拭ったとき、強いカビのニオイが広がった。これが口臭か体臭か、もう区別もつかない。


 ニックスには追加の残飯を漁りに行かせた。あれは人間モドキのくせに過食症ぎみで、石でも肉でも腹に詰めておかないとすぐにイラつき始める。出て行ったときの様子から見積もるに、そろそろ戻ってくるだろう。

 ぼんやりと川面を見つめていると、土手を下ってくる足音がひとつ聞こえた。

「来たか」

 運動神経の良い人間に特有の、かかとから下ろすフォーム。ゼロモーメントポイントの移動もスムーズで、足裏から剥がれた瞬間にさっと次の足を踏み出している。


「大尉殿」

 隣まで来て、そいつは敬礼の姿勢を取った。ぐずぐずに乱れた川面にはスーツを着た女が映っている。今日はめかしこむ時間があったらしく、ルーズに開けた襟からは甘ったるい香りがした。

「驚いたな。戦略研究所の室長が、休みに浮浪者のところへお忍びとは」

「はい?」

 川べりの空き地に座り込んで、隣を勧める。女はハンカチを敷いた上に腰かけた。

「失礼します。……どうして休みと」

「コロンだろ、それ」

 男は垢でざらざらした首をさすった。

「仕事中の君はいちいち香水を振り直す暇がある人間じゃない」

「……妹さんですか?」

「調香師の婆さんだよ。頑固な人だった。用件はなんだ」

 尋ねてみせたが、女が来た理由は分かっている。ニックスを行かせたのは幸いだった。

 男は伸びたヒゲを爪で抜きながら考える。戦時中と比べると事務連中も融通が利かなくなった気がする。おまけにキャリア組の上司というのは若いと神経質でいけない。


「あなた、また無断で試験機を持ち出しましたね?」

 果たして予想通りの質問が来た。

「向こうからついてきたんだ」

 男はわざと大きくため息をつく。「人造棄械アルスか何か知らないけど、もう少し情緒を抑えられなかったのか? あれじゃ野良ネコの方が聞き覚えがいい」

「大尉殿がバンザイさせて服を着せたところも監視カメラに映ってます」

「あれは……女の子だからね、外に行くならお洒落は必要だろう?」

 女は鼻で笑って、ハンドバッグから酒の缶を取り出した。

「第一のビールです。飲まれますか?」

「気が利くじゃないか。ここのところモドキばっかりで安舌になっちまう」

 手を伸ばすと、すっとビールが離れていった。女が真顔で見つめてくる。

「……すみません?」

「心がこもってませんが。なめているのですか」

「なあ、お国に身を捧げた英雄がビール1本に頭を下げてるんだぜ?」

「死人はかすみでも食ってりゃいいんじゃないですかね」

「イイ歳こいた大人がスネるんじゃないって……世間を知ってるんだから」

 女がぶん投げてきたビールをキャッチすると、男はニヤニヤ笑いながらプルトップを引いた。本当はぬるいビールなんて好きじゃないが、せっかくの土産だ。


「昨日はクギを刺してきた」

 男はビールの泡で白くなったあごを拭いて言った。

「クギ、ですか?」

「観艦式にウツリの義弟が出る。キョウカもだ」

「となると立案はハバキ特務中尉でしょうか」

「ほぼ間違いなくね」男は顔をしかめて、缶を置いた。「昔からマロっちは要領が良いからなあ。こっちがやって欲しくないことを確実に選んできやがる」

「今からB案の策定もできますが」

「いや、やるよ。僕はシズ・カゲキだ。今度も上手くやるさ」

「すみません」

 さっきまでぺこぺこさせてきた女が、今度は頭を下げる。男は仏頂面になりながら、少し紅くなった顔を片手でなぞった。大人になれば飲めると思ったのに、結局いくつになってもアルコールは苦手のままだった。


「あーっ!」

 急に素っ頓狂な声が飛んできて、土手からニット帽の少女が駆け下りてくる。いつも言葉遣いは無駄に丁寧なのに、こういう仕草は見た目相応だ。

ったらもう! 私、あそこには戻りませんよー!」

 自分から近寄っておいて、ニックスはぎゅっと拳を握って睨み付けた。

「あらら。可愛いスカートなんて履いちゃって」

 女もニックスの恰好をしげしげと眺める。まともな服に驚いているようにも見えた。

「大尉殿。この服はどこから?」

「帽子はゴミ捨て場で。それ以外は僕の戦闘服ACUから仕立てた」

 女の視線を感じて、男は目をそらす。

 分かってる。世間一般のイメージとは合わない。

「……裁縫は得意なんだ。実家にやたら服に凝るガイノイドがいて」

「お、おぉ……本職は良いと思います」

 それから女は当日の日程と段取りだけ確認したら帰った。ニックスの件は不問に付してくれるらしい。彼女が最後に会釈したとき、オレンジ色の瞳がきらきらと残像を曳いていった。


 彼女の姿が見えなくなると、急に夏の暑さが感じられた。

 話しているあいだ、女がちょっと距離を置いたのは汗を気にしたのかもな――とふと考えた。こっちは生ゴミみたいな体臭だっていうのに。なんだかおかしくって、つい笑ってしまった。

「また笑ってる。あんなのより私の方が強いのに」

 ニックスが地面にブーツのかかとをすり付けながら言った。

「うん?」

「あの人と話すときのシズさんって楽しそうですもの。ヤキモチです」

「気持ちは焼くだけにしてくれよ。ヒトは切っても撃っても死ぬんだから」

「了解いたしました。お説教は終わりですか」

「ああ……どうぞ」

 ニックスはバラック小屋に戻って寝息を立て始めた。

 まったくネコみたいなやつだ。オリジナルの逆行降着円盤を再現できず、フライホイールでゴリ押しした試作機関はやたらと変換効率が悪いらしいが、それにしても食うか寝るかしかしていない。


「ヤキモチねえ……」

 あの女に懸想けそうをした覚えはなかった。だが愛着があるのは否定できない。

 きっとあの目が悪いのだな、と思う。

 自分と同じオレンジの丸い瞳。見るたび思い出すから鏡には近付かないようにしていたのに、あの女が来てから調子を崩されて仕方がない。

「キョウカは殺したくないなぁ」

 残ったビールを飲みながら、男はつぶやいた。

 殺す、と口に出しながら変なリアリティを感じた。今の自分なら、前を阻まれたら家族だろうと間違いなく撃つ。撃ててしまう。


 土手の方を見やると、夜鷹がひとりで川を見つめていた。

 いちごジャムの入った瓶を抱えて、サクラ色の瞳をまばたきさせている。その姿がぞっとするくらい空虚に見えて、男は缶をさらに大きく傾けた。


 さっきからアルコールを代謝するために心臓が早鐘を打っている。

 前もこんなことをした覚えがある。

 あのときは血まみれのチームメイトを忘れるためだった。今度はくたびれた自分を忘れるために飲んでいる。試しに胸に手をやると、分厚い胸板越しには鼓動を感じられなかった。

 あるいはすべてが仮初かりそめか。

 最後の一滴が喉を過ぎ、ひときわ大きく心臓がパルスを発した。

 真実などどうでもいい。これしかないのだから、本物だと信じるしかない。

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