3-3.

「誰だ」

 冷静な声が出たことに自分で驚いた。

 屈んだまま窓際に近付いて、カーテンを閉める。一瞬だけ見えた外に不審者はいないように思えたが、見通しの悪い黄昏時の観察なんて信用できるものじゃない。

「15秒後、監視に隙ができる。西の非常口から外に出ろ」

 低出力の短波通信らしく、男の声はノイズでかすれて聞こえた。

「は……?」

「早くしろ。周りを巻き込むつもりか」

 勝手にカウントが始まった。「ほら。12、11、10……」


 トツカは部屋から出た。こちらにも敵とおぼしき人間は見られず、反対側の談話室でシズたちは相変わらず勉強会に励んでいた。副委員長が気が付いて手を振ってきたので、トツカはぎこちない笑いを返しながら廊下を走った。

 非常口に着くと、あらかじめドアが開けてあった。

 既に知らない誰かが通っている――急に背すじを寒気が駆けた。武器になるものを探ったが見つからなかったので、ポケットからハンカチを取り出して手に巻いた。これで少なくとも相手を殴れる。


「裏手の林から公道に出ろ。人混みに黒っぽいシャツの男がいるが、絶対に目を合わせるな」

 トツカが言われた通り林を抜けると、黒いシャツの男が横切るところだった。中肉中背の冴えない男。こんなのに命を狙われているとは。

 つい立ち止まったとき、イヤホンから声がした。

「大丈夫だ。まだ気付かれていない。反対側に3ブロック歩いて左の路地裏に入れ」

「……今なら追いかけて襲えるぞ」

「走るなよ。目立ってしまう」

 イヤホンにマイク機能が無いことに気が付いて、トツカは心の中で毒づいた。これでは独り言を垂れ流されてるのと変わらない。


 相手の男が若いことは薄らと察していた。

 低いが、無理に作った声だった。恐らくモジュレータを噛ませて音程を変えている。

 こちらの動きをモニタリングしているらしいが、さっきから男の息づかいに変わったところは見られない。どうも走って追いかけているわけではないらしい。

「もう少し歩け。その先に広場がある」

 トツカは路地裏を歩きながら見渡す。ルート上に監視カメラは無いようだ。つまり、この男とは別に協力者がいて、そいつが逐一報告している。

 それよりもさっきから引っかかるものがあった。

 指示が知っているセオリーと違う。


 追手を巻くことが目的なら、走ったり林を抜けることは逆効果だ。どう考えても自分の動きは目立っている。諜報は講義で数度やった程度だが、少なくとも制服姿で逃げる奴はいないだろう。

 ひとつ気が付くと、どんどんボロが見えてきた。


 さっきの黒シャツは関係ない。あれは『それっぽく』見せるためのブラフだ。否、このわざとらしい状況すべてがブラフになっている。この男はこちらをどこかへ誘導するのが目的なのだろう。守るつもりなんて毛頭ない。

「真っ直ぐだ。そのまま真っ直ぐ……」

「なあ。あんたの言い方、聞き覚えがあるんだよ」

 しばらく行くと広場が見えてきた。よくある団地の公園で、人は誰も居ない。300メートルばかり離れたところには取水塔があり、黒々とした影を地面に落としていた。

 先ほどまで人混みを歩かせて、今度はだだっ広い空き地と来た。


 間違いない。出たら撃たれる。


 トツカは広場に出る手前で壁に身を寄せた。通信している男がスナイパーだ。取水塔で待ち構えている。そしてスポッター兼監視役が近くにもうひとり。このままトツカが公園に足を踏み入れたところで撃ち抜くつもりだろう。

「どうした?」

 男の声には苛立ちがにじみ出ていた。「早くしないか。そこで仲間が拾う算段だ」

 トツカは手のハンカチをほどいた。広げて持って、肩から先だけ公園に出す。


 間髪入れずに何かが手の甲ごと布地を吹き飛ばした。

「ぐ……っ」

 骨まで響く衝撃につい手を離す。繊維が千切れる音に重なって、鋭い着弾音が響き渡った。撃たれた腕を押さえると、ピンク色の液体がべったりと付着した。


 しばし沈黙があった。


 変わらずノイズを発するイヤホンからは、少し荒くなった息づかいが聞こえる。

 あの男もスコープが反動で跳ね上がる一瞬で、弾を外したことには気が付いたはずだ。そしてトツカは身を隠し続けている。撃たれた手には痛みが残っているが、勝負自体はこちらが勝った。次はどう出るか。

「あなたね、まだ演技に恥ずかしさが残ってるのですよ」

 すぐ頭上から声がした。トツカが見上げると、長屋のへりでぷらぷらと揺れるブーツが見えた。ぶかぶかで紐が余っている。

「ほらバレちゃった。次から普通に質問しましょ? ね?」

 足が止まり、ひょこっと首が覗く。女だ――それもかなり幼い。

 ぱちりと女がまばたきする。丸い瞳が焼けた石炭のように赤く光った。


 トツカが一歩下がったのとほぼ同時に、目の前のアスファルトが叩き割られた。

「現場知らずの士官にしては動きますねー」

 赤い軌跡を宙に曳きながら、女が身体を起こす。短くカットした銀髪がさらさらと風に揺れ、薄い唇が笑みを作る。細い足を包んだブーツの下では、地面に蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。

「……棄械スロウンか」

「私が肯定したら、お話を聞いていただけますか」

 軍属ではないらしい。Dリングの付いたミニスカートと砂色のジャケットを着ていて、頭にはニット帽をかぶっている。どれも使い古したレインコートや軍服から仕立て直したように見えるが、見た目優先であまり実用的な作りではない。

「オレをどうするつもりだ」

「まずはイエス、ノーで答えていただけます?」

「あのな……分かった、ノー」

 ひゅん、と耳たぶを何かがかすめた。背後の壁にナイフが突き刺さる。

「ご安心ください。必要以上に傷つける意図はございません」

 頬を冷たいものが伝った。指でなぞると、浅く切られた痕がひりひりと痛んだ。

 女は小指の欠けた手を振った。骨格と皮膚が再構成され、枝から芽が吹くように新しい指が生えてくる。女がもう一度手を振ると、すべての指がナイフに変化した。

 

「ニックスと呼ばれております」

 女はナイフで八重歯をかつかつと叩いて言った。

「そうですね、あなた方が呼ぶところの棄械スロウンに分類されるでしょう」

「どうしてオレを呼び出した」

「質問があると申し上げました」

 さっきのナイフ投げは速すぎて知覚できなかった。それにアスファルトを割るほどの質量だ――こいつの見た目は少女だが、身体がありったけの高密度の合金で構成されている。

 400キログラム、とまず見当をつけた。問題は反応してくる速度だ。

「どこまであの異人から聞かれたのですか」

「いじん?」

「コベリと名乗っているホモ型性染色体の個体です」

 一瞬、考えた。

「……ホモ?」

「性染色体がXXタイプのホモサピエンスということです」

「あの……それ普通は……いや、呼び方はどうでもいいけどな」

「どこまで聞かれたのですか」

 ニックスが一歩詰め寄ってくる。

 棄械スロウンとしてもスティーリアより若い個体、という気がした。知識が妙に偏っているし、動きにもさっきから落ち着きが無くて、全体的にこなれていない。


「オレは何も知らねぇよ。あの人、日本語が喋れねえんだ」

「喋れないですって?」

 突然ニックスが耳を押さえた。装着されたイヤリング型の通信機が見えた。「取り込み中です」と通信越しの誰かに答えて、トツカを見る。いかにも不機嫌そうに眉が下がっていた。


 通信の男が軍人ならば、こちらが見えるポイントまで移動しているはずだ。

 今も狙ってきている。次の銃弾が飛んでくるまで数秒も無いはず。

「あんたの相方ってシズ・カゲキだろ」

「回答いたしかねます」

 ニックスが手を上げる。どうせまた脅しだろう。が、ここから裏をかくには間合いが近すぎる。フィジカルの差もカバーしきれない。

 顔を守ろうとすると、腕にずきずきと痛みが走った。


 そのとき路地に重い足音が響いた。

「ニックス、もういい」

 大きなシルエットが夕日を黒く切り取る。ニックスが振り向くあいだもじゃりじゃりと鎖を引きずる音が続き、装甲服に巻き付けた弾倉と通信機器が鋭く光を照り返す。

 人影の足元から黒ネコがやってきて、ルビーのような瞳でトツカを見上げた。

 トツカがかがむと「にぃ」と鳴いて足元にじゃれついてきた。その姿も男の陰に紛れて見えなくなる。


「ウツリは元気にしてるか」

 男がハットを脱ぐ。ナイフで裂いて整えた髪が広がった。

 伸びた前髪のひまから妹そっくりのオレンジの瞳が光る。ひび割れた唇からは血が垂れ、野山の獣のような涸れた汗と腐った脂の混じった臭いが鼻をついた。

「気になるなら直接会って確かめろよ」

「義弟のことをよく自慢された。聞いてたより地味な顔をしてるね……」

「どうして今になって戻ってきた」

「事情があったんだ……今だって」

 男が大きく息を吐く。ぶった対物狙撃銃がゆらゆらと揺れた。

「大丈夫。君たちを傷つけるつもりは無い」

「あんたのせいで妹がどれだけ苦労してたか知らねえのか」

「妹?」

 オレンジの瞳がきゅっと小さく絞られた。思い出すような間が少しあってから、男はゆっくりとかぶりを振った。

「……キョウカは、僕がいなくてもやれた」

「そういう問題じゃねえだろ!」

「そんな問題なんだよ。もっと重要なことは、この世にいくらでもあったんだ」

 行くぞ、と男がニックスに呼びかける。彼女は気遣うようにトツカを見たあと、男に駆け寄った。伏せた目の奥で、棄械スロウンの制御コアが赤く輝く。


「スティーリアもあんたを待ってる。何やってんだよ」

「知ってる」

 男は微笑んだように見えた。だとしたら、見覚えのある笑い方だった。

 彼の腰でホルスターのボタンがぱちりと留まる。拳銃で狙われていた――とそこで初めてトツカは気が付いた。変な素振りをしなかった幸運に、冷や汗が背中を伝った。

「観艦式には参加しない方がいい」

 男は去りながら言った。「詮索するのもやめてくれ。アメリカも、棄械も、ヨーロッパのことも君には関係ない。もうすぐ僕が何とかする」

 返答はすぐに浮かばなかった。トツカが口を開いた頃には、男の姿は消えていた。


 あとには呆気ないほど静かな夕暮れ景色だけが残った。

 トツカはナイフで切られた頬を触った。とっくに血は止まって、傷痕もぴったりと塞がっていた。何事も無かったかのようだ。

 あれは本当に英雄だったろうか。それともまた夢なのだろうか。

 地面を見ると、めくれた跡がクレーターになって残っていた。

 その縁に落としたハンカチがあったので拾ってみると、粘つくピンクの液体がまだ付いていた。乾きだしたところが固まってゼリー状になっている。

「重要なことだって?」

 あんなゾンビ野郎に何も出来なかった。これじゃ言われっぱなしだ。

 死んでも良いから殴ればよかった、と今さら思った。

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