3-1. 警枕

 床に打ち付けて硬くなった足は、すり合わせるたびざらざらと鳴る。

 座して面を取り、まぶたの汗をぬぐう。

 地稽古で打たれたこめかみがまだ痛んでいた。腫れていても冷やすほどではないが、それよりも不味い受け方をしてしまった、と思った。


 さっきの稽古では自ら技を殺してしまった。

 基本的に、剣は流すか受けるかの二択の押し付け合いだ。

 先を取られたら引いて仕切り直すか、受けての先を取る。あるいは拮抗させて対等に持ち込む。

 だが引いて流せば次に繋がらず、受けて詰めれば返す刀が来てしまう。よって相手に動きを読まれたが最後、必ず敗れる。そして今回はひと呼吸だけ出遅れた。


「なんだかニブかったな。どうしたんだよ」

 隣にハモンが座って面を取った。この男もよく先輩に吹っ飛ばされている。目方が軽いくせに妙に気が弱いところがあり、すぐ鍔迫り合いしたがるのだ。

「ン?」

「面、変なところに打たせただろ」

「考え事してたんだよ。腹が減ってて。ほら、今日の晩飯とか……」

 ぱん、とひと際大きな音がした。

 シズが女の先輩の指導を受けながらタイヤ台に打ち込んでいた。すでに地稽古を終えたらしく、防具は胴と垂れだけを着けている。長身の彼女がすっと残心を取るのはなかなか様になっていた。


「シズのこと、クスネはどうだって」

 トツカは手元に目を落とす。面にひっかけた手ぬぐいが空調によれよれと揺れている。

「ああ、普通に頑張ってるって……」

「上手いんだか下手なんだか分かんねえって言ってるだろ?」

「あー……まあな」

 ハモンは神妙な表情になって、向かいの壁際でタブレットに入力している女生徒を見た。校則違反ギリギリまで髪を伸ばしているクスネは、ちょっとうつむくと目が隠れてしまう。

「打ち合うときのムラっけが激しい、とは言ってた」

「オレたちより地頭が良いから仕掛けてるあいだは妙に強いんだよ。でも後手に回ると途端にダメになる。あれは相手を動かすタイプだな」

「根っからの参謀ってやつか」

 ハモンは唇を曲げた。「トツカも大概、頭でっかちじゃね?」

「やかましい。おまえ、どうせ段審査の筆記は答えを教えてもらったクチだろ」

「ん、俺は竹刀で打つために剣道をやってるからな。鉛筆は要らん」

 この男は大成する気がしないが、趣味との距離を掴むのは上手いと感じる。


 改めてトツカはこめかみをさすった。

 さっきの打ち合い、ハモンが踏み込むタイミングは分かった。だから打つ前に胴を抜きに行った。それが一息分だけ遅れて返し胴になってしまい、身構えもせず真正面から面を受ける形になってしまった。

 理由は分かっている。相手の剣先ばかり見ていたからだ。

 うむぅ、とトツカはうなる。自分はこんなに視野の狭い男だったろうか。


 シズが先輩の指導を受けるのを見ながら、トツカは水を飲んだ。バッグに処方箋があったのを思い出して、ついでに更衣室に取りに行く。

「そっちも処方されたのか」

 戻ってみると、ハモンがおもりを付けた竹刀を振っていた。

「それ、あんまりやると手首を壊すって話だぞ」

「だからゆっくりやってるじゃないか。で、痛み止めだっけ?」

「知らん。医者に渡されたから飲んでる。」

 トツカは青い錠剤をバリバリと噛み砕きながら言った。ハモンが唖然とした顔になる。

「おまえ……クスリ噛むの?」

「そのままじゃ飲めねえんだよ」

 トツカはむすっと言う。「いくら練習しても、全然できる気がしねぇ」

「マジか、小学生かよ」

「別にどう飲もうが胃袋に入ったら同じようなモンだろ」

 がらがらとボトルの水を飲み干して、防具入れにまとめて叩き込む。


 顔を上げると、武道場の端に女生徒がふたり立っているのが見えた。

 片方は銀の長髪だった。スティーリアだ。もう片方のジャージ女はコベリだろう。

「剣道、やりたいんだって」

 トツカのところに来ると、スティーリアは正座して言ってきた。

「あれか? 体験入部……」

「普通に試合がしたいみたい」

 トツカは首を伸ばした。コベリが編み込んだ髪をつまんでいる。

 スポーツをするタイプには見えない。平均と比べると多少肩は広いが、それも骨格の話であって竹刀を振れるかは別問題だ。

「ちょっと聞いてくる。待ってろ」


 幸い、シズを指導していた先輩が快諾してくれた。

「経験者?」

 先輩は汗でがびがびに乾いた髪を梳きながら言った。

「分からんです。日本語が怪しいんでルールもどうだか……」

「手加減はしないよ」

 先輩はひひっと口角を上げて面を着けに行った。

 この人は面倒見が良いわりにすぐ悪ふざけする。たぶん本気でブン殴りに行くだろう。

 コベリの元へ行くと、倉庫から持ってきたペラペラな防具をジャージの上に着けていた。名前袋の付いてない垂れを収まりが悪そうに回すので、多少の心得はあるらしい。

「こっちの手ぬぐい使え」

 以前、スティーリアが使った手ぬぐいを渡す。洗ったやつだからカビが生えていない。

「……あ、りが、と」

 コベリが無表情のまま頭に巻く。

 見ると横に置いてある竹刀も比較的マシなのが選ばれていた。

「先輩、めっちゃ強いから。ダメならすぐ逃げろよ」

「……う?」

「センパイ、強い。あんた、ボコボコ。降参!」

 トツカが身振りで伝えると、コベリは少しだけ考える間を置いてからうなずいた。

「わ、たし。あ……つよ、い?」

「ノーあんた強い。ノー、勝ち。えーと、もういいや。砕けてこい」


 コベリが面を着けるあいだにハモンたちのところに戻ると、シズも休みを入れているところだった。スティーリアが差し入れたスポーツドリンクをちびちびと飲んでいる。

「ハモンくんに打たれてたね」

 トツカが隣に座ると、シズはにやりとした。

「優等生がヨソ見かよ」

「ん、見られるの嫌だった?」

 トツカは答えず、面に掛けた手ぬぐいで顔を拭いた。頬が奇妙に火照っていた。

「……本調子じゃねぇんだ。いつもなら二秒でボコってた」

「おお言うね、今からもう一丁やるか?」

 ハモンが片目をつむってきたのを、空手チョップで黙らせる。

 シズは笑って、防具入れから腕時計を出した。その瞬間、どうしても目が吸い寄せられた。元はと言えばこいつのせいだ。集中できないのも、こめかみが痛いのも。

 視線に気が付いたようで、シズも腕時計を見つめた。

「これ?」

「なあ……アメリカってどこなんだ」

 すぐ隣でスティーリアがぴくりと動いた。

 あれから図書館やインターネットで調べたが、アメリカという国や地域はとうとう見つからなかった。企業名にも無かった。シズに頼んで時計のシリアルナンバーを見せてもらったが、そっちでもヒットすることはなかった。


「マイナーな地名なんじゃね? ほら、スイスあたりなら時計で有名だし」

 ハモンが面を仕舞いながら言った。

「地図帳を見たが無かった。こんだけ手の込んだ製品だから絶対にあるはずなのに」

「トツカのことだから見落としたんだろ」

「それなんだよ」

 トツカは舌打ちした。

「ここのところ自分の目がイチバン信用できなくて、いくら調べてもキリがねえ」

「兄は偉い人からもらったって……」

 シズは言いかけて、腕時計をはめた手首をさすった。おずおずと目を上げる。

「卒業後だと思う。従軍してしばらく経った頃だった」

「偉い人な。ぺーぺーの新卒からしたらみんな偉いだろ」

 最近、どうもこの兄妹はそこまで仲がよろしくなかったんじゃないか、と思うようになってきた。気が立っているものだから邪推ばかり浮かんで仕方がない。


「ホントにどうしようもねえな――」

 面に小手を突っ込んだとき、耳をつんざく叫び声が聞こえた。

 間髪入れず床を踏みしだく音と、鋭い打突音が響く。

 ぽとり、とハモンが外したばかりの鍔止めを取り落とす。そのあいだにも怪鳥じみた叫びが鼓膜を震わせる。打突の衝撃までも空気のうねりとなって伝わってきた。思わずトツカは稽古場を見る。


 コベリが打っていた。

 否、相手をむさぼり喰っていた。


 試合は初めのひと打ちを済ませて、互いに正眼で仕切り直すところだった。

 物打ちがこすり合った刹那、コベリが叫んだ。相手の竹刀をめくって小手が飛び、そこから避けたならば面に切り返し、打ち返すなら胴を抜きにかかる。下がれば上段から打突を飛ばし、詰め寄せるならばこれ幸いと引き面ではたき落とす。

 間合いなんてあったもんじゃなかった。

 あらゆる動作が攻撃一辺倒で、しかも尋常でなく速い。相手がどう動いても、出鼻の時点で苛烈な打ち込みを倍々の数と速度で差し込んでいく。

 ただの三尺八寸の竹刀が、風を切るたび赤く燃えて見えた。まさに剛剣――體力たいりょくにおいて必ず相手に勝る、という絶対の自信から来る剣技だ。


 だが先輩も少しすると、コベリの上段の構えに左小手を差せるわずかな間隙を捉えたようだった。

 差し込まれた小手は打ち始めの小手がしらをはたく程度の打ちだったが、それを起点として右側の死角からコベリとの距離を詰める。

 ひとたび鍔迫り合いになってからは互いに拮抗して見えた。

 そこから数合切り結び、やがて先輩の打ち込みが面金の右をはじいたところで、コベリの動きが止まった。


 蹲踞を取ったとき互いの肩が上下しているのは、トツカの場所からでもはっきりと見えた。もはや武道場全体が静まり返っていた。みんな二人をじっと見つめていた。

「……三回、斬り殺された」

 稽古場の端で面を脱いだ先輩は、赤くすりなした顔で呟いた。

 傍らのトツカが引きつった表情でいるのを見て、白い歯を見せる。

「ヤバいね。きみ、今のに勝てる?」

「分かりません。ガチの上段使いとはあまり会わないんで」

「打っても打っても上から押さえてくるから、返しで絶対に先手を取られた。居合の巻き藁にされた気分で……あれ、なに?」

「転入生です。たぶんヨーロッパから」

「まったく世界は広いねえ」

 先輩はからからと笑って、他の部員たちのところに歩いて行った。


 戻ってみると、コベリが床に伸びていた。

 さっきまでの気勢はどこへやら、胴も着けたまんまでゼーハーと荒い息を吐いている。その両脇から、シズとスティーリアがどこかから調達した団扇うちわでぱたぱた煽いでやっていた。

「強かったな」

 トツカが顔の前で手を振ってみせると、コベリは力なくうなずいた。

「つ、よい」

「そう。どこでここまで……」

 転がっていた竹刀を拾い上げて、トツカは軽く振った。

 あの動きに対応できるだろうか、と自問する。不可能ではない。押さえ込まれたときにも後の先の動きというものがある。一度ペースを崩せば互角に持ち込める。


 そのとき、強い違和感があった。

「どした、色男?」

 横合いからハモンが嫌味ったらしく顔を覗いてきたのを、とりあえずポカリと殴って黙らせておいた。

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