2-1. 黄梁

 気の抜けるようなカントリーミュージックが流れていた。

 トツカは黒いビニール張りの長椅子に腰かけながら、本日の医者について考える。


 ムラクモ学校の医療班がかなり自由にやっていると気付いたのは、ここ数日のことだ。

 まず診察室によって音楽が違っている。無駄にノイズキャンセリング機能なんぞ使って、音漏れ対策も完璧ときた。

 今日のジャンジャンと震えるピアノの音には聞き覚えがない。たぶん初めての医者だ。

「まったくよ……」

 昼間の病院ということで、他の来院者は中年か高齢者ばかりだった。ムラクモの制服を着たままだと浮いてしまって仕方がない。


「トツカ・レイギさん、どうぞ」

 看護師がにこやかに名前を呼んできた。

 トツカが拍子抜けした顔をしていると、看護師が手を振ってきたので、急いで椅子から立ち上がる。『さん』付けされると、まるで自分の名前じゃないみたいだった。

 診察室ではシズが座っていた。こちらの診察は終わったらしい。

 その奥で白衣の男がパソコンをカチカチと打っている。そばかす顔で眠そうな目をしていた。なんとなく、カントリーミュージックが好きそうなタイプに見えた。この人の選曲かもしれない、と思う。


「音楽、切ろうか?」

 医者は半開きの目をじろりと向けつつ、トツカのカルテを画面に並べた。

「……へ?」

「きみ、外でずっとスピーカー見てた。そういうことじゃなく?」

「ああ。べつに。カントリーですか?」

「そ」

 医者はシズの方を見た。

「きみは?」

 シズが顔を上げる。

「ん?」

「好きな音楽とかある? 言ってくれたら流すけど」

「えっと、いいです。素敵な曲だと思う……」

「大抵の音楽好きは汚い音だって言うんだけどね」


 医者は口元をほころばせた。思ったより若々しい笑顔をしている。


「二人とも少し打撲と切り傷があるから、痛み止めを出しておく。もし変に動かしにくいところがあったら連絡して。海ってやつは見た目ばっかり綺麗で、生き物の死体だらけなんだからさ……」

「ハモンくんとメヌキさんは?」

 シズが腕を引っかきながら言った。生乾きの服から洗剤の匂いが漂う。

「向こうも似たようなもんだったよ。今度のORBSは人間にも優しいね……」

 はい、と医者は看護師を呼んだ。


 待合室に戻ると、シズは自販機でジュース缶を買った。

 トツカもウーロン茶を買って、フタを開ける。ほのかに震える自販機に背をつけて飲むうちに、遠くの校舎でチャイムが鳴るのが聞こえた。

 授業時間に外にいるのも変なものだが、焦ってる感じは無かった。慣れてしまったのだろうか。

「ここのところサボってばっかだな」

「……ん?」

 顔を上げた拍子にシズが咳き込む。炭酸飲料には慣れていないようだ。

「だから、授業だよ」

「あー……まだテストまであるから、大丈夫かな」

「オレ、本をすいすいと読めねえからキツいんだよな。後から勉強しても、ああいうのだけはどうにもならねぇ」

「養子なんだっけ」

「まあな、最近の田舎じゃ珍しくもない」

 残りのウーロン茶を飲み干して、缶の印刷を眺める。

 値段なりに美味い茶だった。

 研修でそれなりの給料は出ているが、それでも今の台所事情からするとちょっと高い。


「……とりあえず人間らしい生き方ができてるし、ウツリ義姉さんには感謝してる」

「本当の家族の人は?」

「べつに。顔ぐらいは知っても良いかもしれねぇけど」

「そう……」

 シズは両手で缶を持ち直した。

 冷たさを味わうように手の中で回しながら、目を細めている。

 この人にはまともな肉親がいない。兄は棄械スロウンとの戦いで死んで、母親も病死した。父親は役所勤めで頑張っているらしいが、家に帰ることはまれだと聞いている。


 飲み終わった頃にまたアナウンスがあって、薬局で処方箋を渡された。

 保険が下りるらしく支払いは無かった。紙袋には痛み止めとよく分からない青い錠剤がじゃらじゃらと入っていて、同封された紙には「ロキソニンとプルシアンブルー」とあった。

「青い方を飲むのは一日三回。そっちのは痛み止めで、筋肉痛がキツいときにどうぞ。どっちも食後に水で飲んでください」

 軽く説明した薬剤師が「お大事に」と最後に結ぶ。

 寮の自室にアスピリンが残っているのを伝えようか、とトツカは一瞬考えた。だが数ヶ月前に処方されたものだ。この機会に捨ててしまうのもいい。


 外に出ると、シズも同じ紙袋を抱えていた。

 説明書を読みながら首をかしげている。相変わらず真面目な人だ。

「どうした?」

「ん……」

 シズは顔を上げると、ぎこちなく微笑んだ。

「なんでもない。ねえあの人、どうなったと思う?」

「あの人?」

「ほら、棄械スロウンの中から出てきた……」

「ああ、そっちか」

 化け物クジラの腹から出てきた女の子は、このあいだの戦闘のあとで、陸軍の特殊作戦隊が検査しているらしい。

 このご時世、見た目が同じだからと人間とは限らない。もし擬態した敵なら、その場で射殺されるはずだ。


「一応、調べさせてる……ン、噂をすればだな」

 そのとき病院の自動ドアが開き、銀髪の少女が入ってきた。

 トツカが手を振ると、彼女は軽く会釈を返した。眉にかかった前髪をかき分けるついでに、片手に持った差し入れの袋を持ち上げて見せる。

「また入院したら大変だと思ってさ!」

 トツカたちのところまで来ると、彼女はごそごそと袋からリンゴを取り出した。

「……あ、要らなかった?」

「金はどうした」

「ハバキ教官にもらっちゃった。あの人、自分で買えばいいのにね」

 シズが苦笑していた。少女も微笑んでリンゴを戻す。


「ウェットティッシュ、役に立ったでしょ?」

「ん、スティーリアの言う通りだった。ありがと」

 トツカもこの人から渡されたウェットティッシュのことを思い出した。

 水が貴重な空母ではシャワーの使用にも制限があって、せいぜい身体を濡らすのが精一杯だった。そんなときのウェットティッシュはまさに生命線だった。

「おまえ、軍艦に乗ったのか?」

「いいえ」

 スティーリアはうなじの製造番号をかりかりと引っかいた。わざとらしいモーター音が指の関節から響く。

「でもああいう船って大体似たような構造してるじゃない? お風呂が無いっていうのは聞いてたから、あれも同じかなって思っただけ」

 このガイノイドは船旅をするタイプには見えない。知識としてあらかじめ持っていた、ということだろう。どんな知識かは知らないが。


「それで頼んでいた件だが……」

「大丈夫だったよ。あの子、人間だってさ」

 隣でシズがほっとしたのが分かった。

「他に向こうはなんか言ってたか?」

「今後は海軍と合わせるんだって。任務の管轄も移すとか」

「ずいぶん詳しいな」

「探せばいつでも愚痴りたいオトナは居るってことだよ、マスター」

 スティーリアは片目をつむった。事情を知らない人間には、このガイノイドは無害なハウスキーパー型にしか見えない。警戒はされなかっただろう。

 もう一度開いた片目には、無機質な光がはっきりと灯っている。

 人間の形をしただけの異物。それが、彼女たちだ。

 ともあれ権限が海軍に移るなら、これ以上関わらずに済む。あの一件は忘れてもいいのかもしれない。


「じゃ、帰ろう。今晩はハムエッグらしいよ」

 変わらずスティーリアは微笑んだまま、手を引いてくる。

 その肩からずり下がった差し入れの袋を、トツカはさっと取って自分の肩にかけた。スティーリアが動きを止めたので、「手ぶらだと落ち着かねえんだ」と言っておいた。

「ありがとう?」

「どういたしまして」

 後ろでシズたちが話すのを聞きながら、トツカは三歩ほど先を進む。


 歩くうちに自然と顔が険しくなった。

 今晩のメニューはハムエッグ――あの女が来る、ということだ。

 きっと今回もロクなことにならない。

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