1-2.

 海と聞くと、トツカはフィルムの匂いを思い出す。

 何年も昔のことだ。


 茅場チバにも有名な砂浜があるらしい。

 海水浴場という、遊泳用に分けた場所だと説明された。

 姉弟子のウツリが見せてくれた写真では、木綿のような白い浜の横に、緑色をした海が広がっていた。もう日が傾き始めていて、水着の人々がパラソルやビーチマットの周りで休んでいる。立てた浮き輪をくるくると回して遊ぶ子供もいた。


「遊泳用って、じゃあ他のこと用の場所も?」

「釣りできるところもあるし、あとは船とかスポーツとか……」

 姉弟子は少し困った顔で、指折り数えていく。口に出すうちにだんだんと声が小さくなっていき、最後は握った手をぼんやりと見つめるだけになった。

「義姉さん?」

「あ、ごめん。ぼーっとしてた」

 ウツリは目を丸くして、ページを一枚めくった。

 また海水浴場の写真が現れたが、今度は風景ではなく個人にフォーカスしていた。知っている顔もちらほらと見える。


「これ、今はもう着れないかな……」

 ウツリは居心地悪そうに、写真の中央で手を振っている女の子をなぞった。

 女の子は白いセパレート水着を着ていた。日に焼けた赤い腹に、ごつごつとした筋肉が浮かび上がっていた。かなり露出度が高く、隣の男は無理して目を逸らしているように見えた。

 トツカはそっと、今の姉弟子の装具でがんじがらめになった身体をうかがった。


「義姉さんのことだからフンドシ一丁かと思ってた」

「あ、馬鹿! 私にも恥じらう時代はあったんですー!」

 左手で頭を鷲掴みにされた。ぎりぎりと頭に響く音を聞きながら、トツカはふたたびアルバムに目を落とす。

 写真の中の姉弟子はとても楽しそうに見える。どうだった? と今トツカが尋ねたら、良い時代だった、とウツリは答えるだろう。彼女には似合わない諦めた顔をして。

 どこで変わってしまったのか。

「やめろよ、義姉さん」

 トツカはかぶりを振った。海は好きになれそうにない。


―――★


 沖を離れて二〇分ほどで、海の色は濃い藍色に変わった。

 船旅は初めてだった。酔い止めも準備してきたが、思ったより揺れが少なくて、今のところ使う予定はない。

 ただ、猛烈に暑かった。

ORBSオーブスと同じで、艦船フネも運動と安定はトレードオフなんです」

 廊下の前方で、ブラウンのヘルメットがひょこひょこと飛び跳ねる。

 同じ学校のよしみで話しかけたことを、トツカは早くも後悔し始めていた。

 女の子は研修を終えたばかりのようで、まだ作業員の白シャツを着たままだった。

「底が広ければ安定するし、狭ければよく動く。航空母艦というのは海の上に高層マンションを作るようなものですから、それはもうでっかい船底を持ってるわけです」


 案内を頼む、とさっき言ってからずっとこの調子である。

 整備科で海軍志望らしい。さっきは蒸気圧カタパルトの歴史をたっぷり語られた。

「で、司令室みたいなのってどこにあるか知らねえか?」

「どっちのですか」

「えっと……どっちって?」

 女の子はぴん、と上を指す。ターボファンエンジンの高い音が天井を抜けて聞こえた。

08ゼロエイトの司令部と、その上の航海艦橋のふたつがあるんです」

「ヒコーキを運用するところに行きたいんだが」

「PFCですね、こっちです」

 慣れた足取りで、女の子は通路を歩いていく。

 階段室の梯子までの廊下をほんの数十メートル歩くだけで、何人もの士官たちとすれ違った。どの顔もやたら若々しいので「新造艦らしいな」と女の子に言うと、「海軍ってどこもこんなもんです」と返ってきた。

「平均年齢は二十歳くらいですかね」

「離職率、やっぱり高いのか」

「体力的な問題がほとんどらしいですよ。海の上はキホン休めないんで」


 新鋭空母『ヤシマ』に乗って三日目だが、確かにみんな忙しそうだった。

 このギャラリーデッキでトツカが生活しているあいだも、ひっきりなしに上下左右から騒音が聞こえてきた。ぶっ倒れそうな顔で下の階に向かう作業員は、もはや見慣れた光景だった。

 トツカも初めの頃こそ飛行甲板の見学に行ったものだが、灰色の耐熱塗料を塗ったデッキは照り返しがひどく、ものの数分で目がクラクラしてしまった。そんなわけで昨日からはもっぱらパイロットの座学に参加させてもらっている。


 最上甲板に出て無骨な艦橋の階段を昇ると、やっと管制室の分厚いドアが現れた。

 部屋の中は管制官たちのざわめきで、やはりうるさい。甲板士官とパイロットと整備班の連絡を同時にこなすものだから、陸と比べて倍以上の通信が飛び交っているらしい。

「では、私はこれで」

 女の子が去って、トツカは管制室の壁際に身を寄せる。

 今日も戦闘機の発着訓練をしているらしい。さっきから斜めになった飛行甲板を何機もの航空機が滑っている。ワイヤーに掴まった機体がアフターバーナーを焚く音で、ときおり窓ガラスがびりびりと震えた。


「夜はもっと凄いぞ」

 急に横から話しかけられた。

 トツカが振り向くと、がっしりした中年の男が立っていた。佐官のジャケットを羽織っている。

「はあ……夜ですか」

「ワイヤーが甲板をこすって、バーッと火花が咲くんだ。それがもう綺麗でな」

「オレ、ORBSなんですよ。カタパルトは使えないんです」

「研修は明後日までだったかな?」

「本当にすいません。ド素人連中が出しゃばって……」

 男は腕組みをして、トツカを見つめた。

 胸の階級章は大佐だった。艦長か、航空部隊の司令官だ。


棄械スロウンは強いか?」

 男は静かに言った。その後ろで、発艦の指示が飛んだ。鍋の蓋みたいなレーダーを載せた哨戒機がカタパルトで押し出されていく。

 トツカも真っ直ぐ見つめて答える。

「はい。でも殺せました」

 男はそれだけ聞くと、満足したように席に戻っていった。

 

 もう少し管制室を歩くと、やっとお目当ての人物を見つけた。ヘッドセットを着けた管制官の後ろに、長身の少女が立っている。

 さっきまで甲板にいたらしく、彼女はカーキのフライトジャケットを着たままだった。腕まくりを禁止されているから、顔が汗でぐっしょりと濡れている。

 トツカが隣に立っても、彼女は微動だにしない。まばたきも忘れて管制官のやり取りに耳を傾けている。

 それから数分して、やっとこちらを振り向いてくれた。

「あ、トツカくん?」

 と言って、慌てて切りそろえた前髪をかき上げる。汗疹あせもまみれの手が赤かった。

「ああ。もうすぐミーティングだから呼びに来た」

「ん、ごめん」

 このシズ・キョウカという少女は、集中しすぎるきらいがある。しかも急にスイッチが入るものだから、なかなか予測がつかない。


「それで、管制官の勉強はどうなんだ」

「やってることはまだ分かんないけど、あの人たち凄いよね」

 シズは甲板でタッチ・アンド・ゴーの訓練をする戦闘機を指さした。きゅ、とランディングギアを滑走路にかすらせて、すぐにアフターバーナー全開で飛び去って行く。

 ね? とシズが見てくる。

「あの甲板、三つに分かれてるの。だから着陸できるスペースの長さは四十メートルくらいしか無くって。私だったら絶対に海に落ちちゃうと思う」

「そんな狭いか?」

 トツカは窓の外に目を凝らしたが、駐機スペースとカタパルトエリアは分かっても、どこまでが着陸用の滑走路かは区別がつかなかった。

 相変わらず、この人は観察力が違う。


 トツカたちが管制室を出るとき、士官のひとりが親指を立ててきた。シズも笑って同じように返す。いつの間にやら、すっかり顔なじみのようだ。

 ふたりでギャラリーデッキに降りて、ぐるりと通路を回る。

 八層十一階建ての空母において、第三層のギャラリールームは士官用の部屋。

 狭い通路の両脇に所狭しと四畳半の個室が並んでいる様は、寝台列車を思い出す。二百以上ある番地を巡るうちに、どうにか飛行隊の控室に着いた。


「いらっしゃいましー」

 中ではハバキ教官が待っていた。モニター付きの演壇の前には床に固定された椅子がずらりと並び、ムラクモ学校の生徒が何人か着席している。

「すいません、遅れました」

「よろしくってよ! ご見学は楽しめましたか? ふふっ、海軍の皆様の前で、我ら華の陸軍が大音声だいおんじょうの叱責など出来ましょうか!」

 シズが引いた顔になる。鏡があればトツカも似たような顔をしていただろう。


「えっと……」

「さあさあご着席なさって!」

 ハバキ教官がわざわざ席まで案内してくれた。途中で堪え切れなくなったのか、グヘヘと気色の悪い笑いまでこぼしだす。いよいよトツカは頭を抱えたくなった。

「何かあったんですか……?」

「いえいえ、大したお話ではないのです。されどゆかしきと申されるのでしたら、まあ、教え申し上げてもよろしいですけれど? あぁなんたる愉悦でございましょう!」

 ふふふ、と笑いながらハバキ教官は演壇に舞い戻る。

 隣からシズの視線を感じて、トツカはむすっと言った。

「……知らん!」


 整備科の連中も合流して、ミーティングが始まった。

「戦勝パレードを、この『ヤシマ』の観艦式で仕切り直すのは申した通りです」

 スライドが切り替わり、整列したORBS部隊が表示される。

 鋭角的なヘルメットの『グラム』タイプが次々に宙に舞い、空にスモークの帯をく。本来はこうやる予定だったのが、先の戦勝パレードのときは棄械スロウンの妨害が入って縮小せざるを得なかった。

 

 あの後も、ムラクモ学校は二度ほど棄械スロウンを撃退している。

 トツカはそっと首すじに触れた。骨折して医療用ホチキスをばちばちとくっ付けられた痕が、ごつごつと指に当たる。あのときのことは、まだ夢のようだ。

 どうも軍部ではそこそこ有名な話になったらしく、そのおかげで今回のパレードで白羽の矢が立ったらしい。

「式典の際には本艦から『カリバーン』タイプにより出撃します。その演習を明日実施いたします。当番表と着艦装置のオペレートは先日の資料から変更はございませんわ。細かいタイムテーブルはここの整備チーフから――」


 後ろの扉が開き、士官の男が入ってきた。

 男は日焼けで真っ赤になった鼻をこすりながら、ハバキ教官に海軍式の敬礼を送る。ハバキも陸軍式に敬礼を返し、困惑ぎみに直立の姿勢を取る。

イカリの皆様は、ずいぶんお気がかれるのですね……」

「第102航空団のツルワ大尉だ。サクラのあんたらには悪いが、この部屋はブリーフィングに使わせてもらう」

 格納庫から真っ直ぐ来たらしく、ツルワは耐Gスーツを着たままだった。

 ハバキの顔から笑顔が消える。

「何か、問題でも?」

「答える義理はない。これは海軍内で対処すべき事例だ」

「あなた何を時代遅れな――」

 そのとき艦内放送でアラートが鳴った。スクランブル発進のアナウンスが続き、あちこちの廊下から足音が鳴り響く。

 ツルワを押しのけて、別の士官が入ってきた。佐官のワッペンを着けている。

「……構わない。同席してもらえ」

「しかし!」

「彼らの方が慣れている。派閥で出し惜しみをしてる場合じゃない」

 佐官はトツカと目が合うと、軽く会釈してきた。

 慣れているの意味が分からず、トツカは口を開けたまま、とりあえず頭を下げる。


「哨戒機ですのね?」

 ハバキ教官の顔が青くなっていた。佐官も重々しくうなずく。

棄械スロウンだ。三分前に接触して、一機やられた」

 部屋中で生徒たちが動きを止める。シズがペンを取り落とす音が、大きく響いた。

 佐官はうなだれて言った。

 

「……ヨーロッパからの連中だ。いよいよ上陸してくるぞ」

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