第2章 落ちてゆくアポルオン

1-1. 胡蝶

 悪意はどこからでも現れる。夜は特に不意に。

 その日も暑い夜だった。少し走ると湿気を含んだ空気で、すぐに喉が詰まった。

 外れかけたヒールで足がもつれた。立ち止まって見ると、びらびらの布切れになったストッキングの穴から、素脚が縛られた肉のように飛び出していた。皮膚は余すところなくあざだらけだ。ここへ来るまでに何度転倒したかも覚えていない。

 痛みがぶり返す前に歩みを進める。呼吸するたびに胸が爆発するような感覚があった。

「ひとつブロックを進んで左に曲がれ。狭い路地がある」

 耳に挿したインカムから声がする。

 彼の名前は知らない。所属も、人種すらも。

 声は加工していないようだが、聞き覚えが無い。ただ、若い男だと思った。言葉を短く切る癖があって、リップノイズも少ない。通信慣れしている。たぶん水夫か兵士。


「誰なの」

「国の連中だ。さっき、トレンチコートの男が見えただろう――」

「あなたのことよ! なんで助けてくれるの!」

 かちかちと何かをいじる音がした。

「僕は……ほら、そこを左だ。あんまり目立つなよ」

 言われるまでもなかった。

 後ろからの足音が聞こえる。さっきよりも人数が多い。



 きっかけは昨日取った客だった。

 国のお偉い方とかで、恰幅がよく、胸元から高そうなコロンの匂いをさせる男だった。

 名前より肩書を見せる客は、靴を見て判断することにしている。あのときは、ちゃんと墨を塗りたくった革靴だった。磨く人間を雇っている。少なくとも金がある身分らしい。


「最後のコードヴァンだ」

 ホテルのベッドで彼女を抱きながら、男は床に放った靴にあごをしゃくった。

「えっと?」

「さっき、靴を見てただろ」

 男は濃いヒゲをたくわえていた。唾で濡れたヒゲが、あごに合わせて動く。

「違うのか?」

「え、ええ。立派ね。コードって、紐のこと……」

馬革コルドバだよ。専用にシマウマと競走馬を合わせたやつの尻を剥いで作るんだ」

「詳しいのね」

「君たちは難しい話になると、いつも相手を褒める方向に逃げる」

 男は喉の奥で笑って、彼女の長い髪をさっと漉いた。


「私。その君たちって言い方は嫌いかも。私がたくさんいるみたい」

「おい、えらく機嫌が悪いぞ。金払いがダメだったか?」

「ええ、そうよ。従順なのが欲しいなら、外にお人形も立っていたのに」

 彼女は日に焼けた肌をつまんで見せた。ガイノイドの肌と比べると、人肌はむらっけのある色合いをしている。こちらが靴で値踏みしたように、男もグラデーションのかかった肌で彼女を値踏みしていた。

 あの靴とこの肌、きっと値段は釣り合っているのだろう。

 だからこうして取引トレードが成立した。この男は金を差し出し、彼女はそれに見合ったサーヴィスを返す。それ以上も、それ以下も無い。

「ロボか。丸ごと買えるものに興味は無いなあ」

 男も肌を触ってきた。少しだけ爪が立っていて、つまんだところが赤くなる。


 それから二回ほどやり取りをしたあと、男はシャワーに立っていった。

 男の足取りはまだしっかりしていた。彼女は口をすすぐついでに、ワインのバケツに氷を足しておいた。その中からひと欠片つまんで、洗面台の鏡の前で乳房にこすりつける。上気したように薄紅に色付く肌を見つめながら、さっきからおりが沈んだように重い頭を振る。


 夜の街に立っていると、やり取りの相手は色々だ。

 年齢のバリエーションはあらかた経験した。小ぎれいな財布を持った浮浪者と共にしたときもあれば、中年女が指輪をはめた手で札束を渡してきたこともある。

 手櫛で髪をけずりながら、ぼんやりと鏡を見つめた。

 特に美人とは思わない。この年齢なら真ん中くらい。ただ醜くはない。客はたいてい、たくさん『ない』が付いた相手を求めている。後腐れがない、不快じゃない、口数が多くない。その意味じゃ、このちゅうくらいの身体には天職だった。


「うん……」

 氷で腹を撫ぜ終えたとき、洗面台に乗った腕時計に気が付いた。

 男のものだろう。手に持つとすり切れたバンドが目についた。耳に当てると、コリコリと無数の歯車が回る音が聞こえる。かなり精巧に作ってあるらしい。

「飛行時計というやつだよ」

 シャワー室の扉が開いて、男が出てきた。

 気だるげにタオルを肩にかけて、ひたいに張り付いた髪を払う。脇腹と肩口に大きな縫った痕があった。元は軍人なのかもしれない。

「ごめん。素敵な時計だから勝手に見ちゃって……」

「好奇心旺盛だな。というやつ、君もやるのか?」

「盗んだら通報するんでしょう?」

「警察は嫌いなんだ。返してもらうなら、二度目のとき……次もいいよな?」

「あら、ありがとうさま」

 肩にごつごつした手が回ってきた。男はひょいと腕時計を取り上げて、勢いよく振る。


「便利だぞ。中におもりが仕込んであって、歩けば勝手にゼンマイを巻いてくれる」

「あなたたち、飛ぶときも歩くの?」

「さてな。パイロットってやつを、俺はよく知らん」

「プレゼントなのね。誰から?」

 男は腕時計をひっくり返して、裏のメダリオンを見せてきた。

 製造会社のロゴと、その周りに数字や文字が刻んであった。彼女はじっと目を凝らす。

「……ごめん、読めない。何て書いてあるの」

「アルファベットだ。アメリカ国にて製造と書いてある」

「アメリカ?」

「そういう国があるんだろう。くれてやろうか?」

 男はからからと笑って、彼女の腕にバンドを巻きつけた。

 女の細腕では一番近い穴でも余って、円盤の部分が落ち着かなかった。彼女は隙間に小指を突っ込んで、にっこりと微笑み返す。

「飛行機乗りには細すぎるのかもね?」

「次までに肉を付けろってことだ」

 腕から腰へと、男の手が伝っていく。荒い息が首すじにかかってきた。

 彼女は腕時計を見る。アメリカ。なんだか不思議な響きだった。



 また倒れてしまった。泥だらけの腕時計が、文字盤を緑色に光らせる。

「あと少しだ。そこの路地を抜ければ援護できる」

 まだ男の声は続く。この人の腕にも時計は巻いてあるのだろうか。

 誰かも知らない男に命を預けている状況が、途方もなく滑稽に思えてくる。もしかすると、この男も腕時計のおかげで気付いてくれたのかもしれない。

 こんなに光るのだから、きっとそうだ。

「ねえ、あなたもアメリカの時計を着けてるの?」

 返答は無かった。

 そのとき、すぐ近くで足音が聞こえた。足を速める。誰かが小石を蹴り飛ばした。靴が足からり抜けていく。悲鳴がこぼれ、アスファルトを踏んだ足がずたずたに裂ける。

 もはや全世界が彼女を追いかけていた。すべての暗がりが彼女を見据え、あらゆる空間が手を伸ばしてくる。ひやりとしたものが肩に触れた。風かもしれないし、人間の手かもしれない。


 路地を抜けた瞬間、助けてと叫んだ。

 ひゅ、と短い音がした。それから、乾いた銃声。頭蓋骨の奥深くへと衝撃が貫き、そのまま頭の反対側まで抜けて行く。何か熱いものが肩から胸へと伝った。

 倒れたとき、腕に巻いたままの時計が見えた。蛍光塗料が光るのを見つめるうちに足音がまた聞こえた。


 誰かがやって来て、頬に触れた。人間にしては冷たい指をしている。

「ターゲット、ダウン」

 低い女の声が言った。

「……いえ、違います。シリアルナンバーは合ってますが、本人ではありません」

 何事か言い合ったあと、女は舌打ちした。

夜鷹ヨタカが客を記録するわけないでしょーが! これだから万年童貞は!」

 女が屈みこんでくる。


 何かを引っ張った、と思った次には焼けるような痛みが首に広がった。

 あとには後悔だけが残った。

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